古代ローマと日本のお風呂文化にフォーカスした展覧会『テルマエ展』が開催中!

古代ローマのテルマエ(お風呂)は、単なる公共浴場以上の役割を果たし、社交やリラクゼーションの中心地として機能していました。同様に、日本の入浴文化も長い歴史を持ち、温泉や家庭風呂が心身の健康を支える重要な役割を担っています。

展覧会では、これら両文化の社会への影響と日常生活における浸透度を比較しながら展覧していきます。展覧会は序章を含む5章で構成されており、それぞれの章の見どころを紹介していきます。


会場の様子

章の紹介とそれぞれの見どころ

序章 テルマエ/古代都市ローマと公共浴場


左から《カラカラ帝胸像》212〜217年 ナポリ国立考古学博物館、《アグリッパ胸像》デッサン用石膏像 現代 個人像

テルマエはギリシャ語の「テルモス」(熱い)から名付けられ、狭義では皇帝による大規模公共浴場を、広義では古代ローマ内の全公共浴場を指します。最初のテルマエはアグリッパが前25年に建設。ローマ市では、64年に大火が起き、ネロ帝は、その焼け跡に自身のための黄金宮殿を建てたが、それが人々に受け入れられず最終的には自殺に追いこまれてしまう。

続くフラウィウス朝の皇帝は黄金宮殿の広い跡地にコロッセウムやティトゥス浴場を建設した。カラカラ浴場やディオクレティアヌス浴場などの遺構はローマ市内に今も残っています。

カラカラ帝(左側)は、ローマ市民権を全属州市民に与え、巨大な浴場を建設したことで知られています。この肖像は後の軍人皇帝たちの手本となりました。アグリッパの胸像(右側)も特徴的で、日本ではデッサンの教材として石膏像が普及し、別の文脈で知られるようになりました。

1章 古代ローマ都市のくらし

古代ローマが地中海全域に勢力を拡大し、富裕層は広大な土地を所有し、政治活動に専念するため都市に住んでいました。これに対して、土地を失った人々もまた都市に流入し、日雇い労働で生計を立てるようになりました。

都市では、インスラ(高層の集合住宅)に住む下層民が多く、これらの住宅は極めて生活環境が厳しいものでした。皇帝たちは大衆の不満を解消するため、食糧の施与や見世物を提供する政策を行いました。特にテルマエは社会的な集会の場として、また日々の疲れを癒す場として、庶民に広く利用されました。

古代ローマの饗宴は裕福な家庭で開催され、家には専用の台所や饗宴部屋があり、奴隷が料理や給仕を担当していました。これらの饗宴は親しい友人との集まりから、政治的な会合に至るまで多岐にわたり、ギリシャと異なり、市民階級の女性も参加可能でした。


左から《ヘタイラ(遊女)のいる饗宴》1世紀 ナポリ国立考古学博物館 、《魚のある静物》1世紀 ナポリ国立考古学博物館

左の絵では、一組の男女が古代ギリシャの臥台(クリネ)に横たわり、饗宴を楽しんでいます。女性は透けるヴェールをまとい、隣の給仕が持つ小箱に手を伸ばしており、ヘタイラ(高級娼婦)と思われます。男性は酔った様子で角杯を掲げています。

また、右の静物画には食品棚が描かれ、ひっくり返った籠からヒメジ、イカ、アサリがこぼれ、アスパラガスやカサガイ、束ねた鶏も飾られており、これらの食材は豪華な正餐のためのものと思われます。


左から《悲劇の仮面を表した軒瓦(アンテフィクス)》1世紀 ナポリ国立考古学博物館、《2つの仮面を表した浮彫》1世紀 ナポリ国立考古学博物館、《劇場の舞台建築ファサード(スカエナエ・フロンス)の模型》前3〜前2世紀 ナポリ国立考古学博物館

古代ローマの娯楽として戦車競走、剣闘士試合、演劇が発展し、政治的な目的も持つようになりました。戦車競走は古くからあり、剣闘士試合は午後に実施され、円形闘技場では公開処刑や模擬海戦も行われました。演劇では喜劇が中心で、アテラナ劇やミムス劇が人気を集め、演じる者たちは多くが奴隷や自由民で、成功者は富と名声を得ました。

2章 古代ローマの浴場

公共浴場はローマ発祥ではなく、その起源は古代ギリシャにあり、運動後の洗浄用としてや医療施設としての神域に設置されました。ローマ人はこれを大規模で複合的な娯楽施設へと発展させました。

ローマのテルマエでは、入浴が一連の手順で行われ、運動、冷水浴、温水浴、熱水浴を経て、マッサージや肌の手入れが施されました。これらの施設は、単なる浴場以上に、運動場や図書館、文化活動が行われる場としても機能していました。テルマエは社交の場であり、社会階層を超えた裸の交流が可能で、男女別の時間帯によって利用されることもありました。


《アポロとニンフへの奉納浮彫》2世紀 ナポリ国立考古学博物館

この浮彫は、マントをまとった竪琴を持つアポロと足元のグリュプス、貝殻と水瓶を持つ3人のニンフが描かれています。下部には、マルクス・ウェリウス・クラテルスの誓願成就の奉納であることと、ニトローディの温泉でアポロとニンフたちが祀られていたことが記されています。


《アポロ・ビュティウス坐像》1〜2世紀 ナポリ国立考古学博物館

半裸のアポロがデルフォイの神託を司る鼎に座っており、足元にあるオンファロスと呼ばれる石が、デルフォイが世界の中心であることを象徴しています。このアポロは、伝説の怪物ピュトンを倒した英雄としても崇拝され、治療の神としての側面も持っていました。


左奥手前、《水道のバルブ》1世紀 ナポリ国立考古学博物館、右、《ライオン頭部形の吐水口》1世紀 ナポリ国立考古学博物館

ローマの最初のテルマエであるアグリッパ浴場は、ウィルゴ水道が敷設された後、本格的なテルマエに改築されます。水道のバルブは短い管が伸びた本体とその中の水栓から構成されており、大きなバルブ(左側奥)には水流調節機能が、小さなバルブ(左側手前)には鉛製の水道管がハンダ付けされています。

また、ライオンの頭部をかたどった吐水口(右側)は紀元前6世紀の東ギリシャに起源を持ち、ギリシャやローマで広く採用された設計でした。これらの水道技術は、テルマエの発展に欠かせない要素でした。

3章 テルマエと美術


《恥じらいのヴィーナス》1世紀 ナポリ国立考古学博物館

テルマエは公共の浴場であり、美術鑑賞の場でもありました。特に裸体像が多く展示され、リラックスしながら高品質の彫刻やモザイクを楽しむことができました。水に強いモザイクは床装飾に用いられ、1世紀から多彩なデザインが好まれ、海や神話のモチーフが一般的でした。

ローマの大規模なテルマエには多くの大理石彫刻も飾られ、神々や古代ギリシャの有名作品のコピーが設置されていました。これらのテーマは浴場にふさわしいものが選ばれ、ディオニュソスやヴィーナスなどの像が特に多かったとされています。

この全裸のヴィーナス像は、右手で胸を、左手で布で恥部を隠すポーズの「恥じらいのヴィーナス(ウェヌス・プディカ)」と呼ばれるタイプです。この彫像スタイルはヘレニズムからローマ時代に多く制作されました。


《カラカラ浴場 復元縮小模型》模型制作:東京造形大学デザイン学科・室内建築専攻上田ゼミの学生 制作指導:上田知正(同大学教授)

カラカラ帝の大浴場は、古代ローマ時代の最大級の温泉施設でした。その遺跡は現在もローマに残り、正面337メートル、奥行き328メートル、総面積約110000平方メートルの壮大な規模を誇りました。冷室、温室、熱室の他に、現代のジムに相当する施設も備えられていました。

会場では、カラカラ浴場を1/250スケールで再現した模型とCG映像が展示されており、古代ローマのテルマエ(公共浴場)の様子を伺い知ることができます。

4章 日本の入浴文化


《明神湯》2008年 町田忍蔵

日本の入浴文化に焦点を当て、その歴史的な発展と文化的意義を探ります。奈良時代から記録されている温泉利用の習慣は、古代から続く宗教的な意義を持ち、多くの高僧によって開湯されたとされます。戦国時代には武将たちが療養のために訪れるなど、温泉が社会の異なる層に利用されてきました。

また、人工的な入浴施設も仏教の影響を受けて発展し、江戸時代には日常生活の一部として広く普及しました。入浴はただの衛生行為を超え、心身の癒し、社会的交流、さらにはレジャー活動としての役割も果たしました。

明神湯は1957年に創業した東京都大田区の銭湯で、関東大震災以後の東京で見られる銭湯建築の典型的な外観でした。建物は神社や城郭を彷彿とさせる入母屋造りの大屋根、唐破風、脱衣所の吹き抜けに折り上げ格天井があり、宮造りの技術と意匠が用いられています。模型は開業当時の姿を25分の1の縮尺で再現しています。


《ケロリンの桶》昭和38年(1963)~平成時代頃

1963年に誕生した「ケロリン」の文字がプリントされた桶は、銭湯の定番アイテムとして広く知られています。このプラスチック製桶は、広告代理店の睦和商事が内外薬品に広報媒体としての提案を行い、衛生的で丈夫な合成樹脂製として人気を博しました。

さいごに

「パンとサーカス」というフレーズは、皇帝たちが大衆の不満を解消するために食糧を配布し、娯楽を提供する政策でした。この観点から、テルマエも大衆の支持を得るための効果的な手段だったと言えます。一方で、日本の風呂文化も、古代ローマのテルマエのように社交やリラクゼーションの場として機能しています。この展覧会を通じ、今後お風呂を利用する際に新たな感覚で湯に浸かるきっかけになるかもしれません。


ミュージアムショップで販売されているケロリンのクリアファイルなど

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