「川島の名前を出すのが嫌だった」麒麟・田村裕が明かす、コンビ格差を受け入れられたワケ

「川島の名前を出すのが嫌だった」麒麟・田村裕が明かす、コンビ格差を受け入れられたワケ

 お笑いコンビ・麒麟の田村裕さんは、2007年に自叙伝『ホームレス中学生』(ワニブックス)がミリオンセラーに。漫画化、映画化、ドラマ化と次々とメディアミックスされ、2億円ともいわれる印税を1年ほどで使い切ったという逸話も含めて注目を集めました。


 2024年10月1日に上梓した『ホームレスパパ、格差を乗り越える 何も変わらなかったから考え方を変えた』(KADOKAWA)では、母の享年と同じ44歳になったことを機に、これまでの人生や、現在の子育てについて振り返っています。

 田村さんに、仕事が激減した際の経験や、相方の川島さんに対する思いを聞きました。

『ホームレス中学生』ヒットの反動でどん底に


――本書では、『ホームレス中学生』が大ヒットしてから、芸人として悩んだ時期があったことを告白しています。どんな苦労があったのでしょうか。

田村:『ホームレス中学生』の話題性だけで実力以上の仕事を得たことで、その反動でじわじわと仕事が減っていきました。相方の川島は1人で仕事をするようになり大きく差がついていきました。

暇だといっても、単発のロケの仕事が急に入ったりするので、最初の頃は何となく自分の中でごまかせていたんです。でもコロナ禍でとどめを刺されました。家族を養っている人間とは思えないような収入の月が増えて、2ヶ月に1回は奥さんに「今月はお金が渡せない、すみません」と言わないといけなくなりました。

「コロナさえ明けたら」と思っていたのですが、そんなにすぐ仕事量は戻りませんでした。でも昨年、たむけん(たむらけんじ)さんが急にアメリカに行くことになって、『よ~いドン!』(カンテレ)という関西の人気番組で、たむけんさんの後釜としてレギュラー出演させてもらえることになりました。その前後から僕の単発の仕事も少しずつ増えてきて、やっと収入も安定するようになってきました。

――田村さん個人の仕事が増えてきたきっかけは何だったのでしょうか。

田村:僕がテレビで川島の話をするようになったからだと思います。以前は、川島の名前を出すのが嫌だったし、腹が立っていた時期がありました。いろいろな人から、「今日もテレビで川島見たよ」と言われたり、SNSで「川島はテレビ出てるのに、田村は何してるんやろ」みたいなことばかりいわれるのが嫌になっていたんです。その頃は「田村は、川島の名前を出すのが嫌なのかな」とスタッフさん達に気を遣わせてしまっていたと思います。

でも、1~2年前に『アメトーーク!』(テレビ朝日)の収録終わりに、笑い飯の哲夫さんと、千鳥のノブ、とろサーモンの村田くんと僕の4人で食事に行ったんです。そこで3人が、「絶対に川島の話をしたほうがいい」「もっともっと自分と比較して喋ったほうがいいよ」と言ってくれて、やってみようと思えるようになりました。

自分から川島の名前を出すようになったことで、いじってもらいやすくなったり、僕自身の表情や空気感が変わっていったことで、仕事の量が明らかに増えていきました。

「ラジオの1本くらいコンビで…」川島に言えなかった理由


――仕事が減っていることを、川島さんには相談しなかったのでしょうか。

田村:相談したい気持ちはありましたけど、コンビってなかなか複雑なところがあってできなかったです。僕らの関係性でいうと、例えば随分前に中国の山奥に弾丸ロケに行ったとき、信じられないんですけど、スタッフさんを含めて誰も元(中国の通貨)に換金してなかったので、めちゃくちゃ乾燥しているのに水すら買えなくて、帰国までの一晩、喉カラカラで過ごしたことがありました。なんとか翌朝になって空港に集合すると、川島がハイチュウを食べてたんです。食べたら唾液が出るから羨ましくて仕方なかったんですけど、コンビのプライドがあって「1個くれ」って言えませんでした。ハイチュウももらえないのに、仕事の相談なんてできるわけがなかったですね。

――川島さんに対して、口には出せない中でどんな思いがあったのでしょうか。

田村:結果的に今は感謝しているんですけど、仕事が無い時期は、「ラジオの1本でもコンビでやらせてくれたらいいのに」と思ったこともあります。

僕は『ホームレス中学生』がヒットしたとき、仕事は全部川島と一緒に行ってたんです。僕の作品だけど麒麟というコンビから離れたものにしたくなかったし、川島も一緒に恩恵を受けてほしかったからです。でも、川島はそのときのことを「嫌やった」と言うんです。僕だけピンマイクが着けられて、川島にはなかったことをネタにしていました。

気持ちが荒んでいた頃は、「それならそう言ってくれたらよかったし、結局一緒に出たことでお金はもらえてたやん」と思っていました。

――そこから、川島さんに対する気持ちが変わったのはなぜだったのでしょうか。

田村:今考えると、『ホームレス中学生』のときに僕が川島を連れて行っていたのは、自分で笑いを作れなくて、助けてほしかったからだと気づきました。そして、「川島が仕事を振ってくれない」と思ってたけど、それは違う。もう本当に自分の足で立たないといけない。麒麟・田村として、自分で制作陣の意図を汲んで形にしたり、VTRを作ったり、ロケやスタジオを回すような役割をしないといけないんだと、やっとわかってきました。

川島が僕を甘やかして、生活できるくらいの仕事を与えることもできたと思います。でもそれをしてくれなかったおかげで、自分が甘えていたことにやっと気付いて頑張ろうと思えるようになりました。

僕はガンガン笑いをとるようなテクニックはないですが、スタジオで役割を見つけて立ち回ったり、『探偵ナイトスクープ』(朝日放送テレビ)では依頼者さんを立てられるようになり、僕なりの寄り添い方を評価してもらえるようになりました。それは、川島くんのおかげやなと思っています。

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