元日本テレビ記者・鈴木美穂、24歳で違和感を覚えてから2カ月後、ステージⅢの乳がんと診断「私の人生、終わった・・・」

元日本テレビ記者・鈴木美穂、24歳で違和感を覚えてから2カ月後、ステージⅢの乳がんと診断「私の人生、終わった・・・」

現在、認定NPO法人マギーズ東京の共同代表理事として活躍する、元日本テレビ記者・キャスターの鈴木美穂さんが、乳がんの診断を受けたのは、24歳のときでした。大学卒業後に日本テレビで記者として働き始めて3年目、右乳房にステージⅢの乳がんが見つかったのです。仕事にも慣れてきて、毎日が充実しているころのことでした。鈴木さんが胸に違和感を覚えたときのことや乳がんと告げられたときのこと、右乳房全切除の手術を受けたときのことなどを聞きました。全3回インタビューの1回目です。

いつものようにブラジャーをつけていたときに、しこりに気づく

鈴木美穂さんが、最初に違和感を覚えたのは、2008年3月のことです。

――右胸に違和感を覚えたときのことを教えてください。

美穂さん(以下敬称略) いつものように朝、身じたく中にブラジャーをつけていたときに、右胸にコリコリしたしこりがあったんです。その前の日までは、しこりに気づきませんでした。「あれ?」と気になったのですが、急いで仕事に行かなくてはいけなかったため家を出ました。

――最初に受診したのはいつごろでしょうか。

美穂 しこりに気づいてから3週間後ぐらいです。仕事が忙しかったし「生理周期の関係で、そのうちしこりが消えるかもしれない・・・」という思いもありました。でも、右胸にできたしこりは消えませんでした。
そのため、取りあえず診療所で診てもらいました。
医師が触診して「確かにしこりはあるけれど、24歳で乳がんになるのはまれです。生理の関係や乳腺症でしこりのようなものができることもあるし。1カ月ぐらい様子を見て、それでもしこりがあるときは詳しい検査を受けてください」と言われました。1カ月たっても、しこりは消えないどころか大きくなっているように感じたため再度受診したところ、医師は「大丈夫だと思うけど。念のため」と言って、大きな病院の紹介状を書いてくれました。

触診では「9割の確率で問題なし」と言われるも、検査で悪性の腫瘍と判明

すぐに紹介状をもらった病院を訪れた美穂さんは、その病院で針生検の検査を受けて、がんとわかります。

――紹介された病院で検査を受けたときのことを教えてください。

美穂 医師は触診では「がんぽくはないから、9割がた安心していいのではないか」と言ったのですが、念のため右胸に針を刺して細胞をとって調べる針生検を受けました。

数日後の5月2日に検査結果を聞きに再び病院に行ったんです。そのときはただ安心を得るためというぐらいの気持ちでした。検査結果を聞いて安心して、午後から取材に行くスケジュールでした。
しかし医師から「残念ながら悪いものが映っていました」と言われ、私が「がんということですか?」と聞くと「そうです」と言われました。
さらに医師は「至急、詳しい検査をするので、お昼ごはんを食べて2時間後にもう一度、来てください」と言いました。お昼を食べる気持ちになんてなれません。

混乱する気持ちをやっと抑えながら診察室を後にして、母に「私、がんになっちゃったみたい・・・」と電話をしました。母はすぐに病院に駆けつけてくれました。上司にも電話をして「たった今、がんを告知されたので、午後の取材、どなたかに代わっていただけないでしょうか」とお願いしました。

――その日の午後に行われたのは、どのような検査だったのでしょうか。

美穂 実は、混乱していてあまり覚えていないんです。マンモグラフィやエコー検査などひと通りの検査を受けたと思います。
検査結果を数日後に聞きに行くことになりました。検査結果を聞くため、私が診察室に入ると、胸の画像が張り出されていて、私でもわかるほど大きなしこりが2つありました。
正直、「私の人生、終わった・・・」と思いました。

医師からは「しこりは合わせて5センチで、ステージⅢ。今のところ右胸以外の転移は見当たらないけれど、おそらく1カ月で倍の大きさになるぐらい成長が早いタイプです」と説明されました。そして「右乳房を残すのは難しい。全切除をしましょう」とも言われました。

――セカンドオピニオンは受けたのでしょうか。

美穂 職場に報告をしていたこともあり、上司や職場の先輩からも、いろいろな情報をもらい約2週間のうちに7カ所の医療機関で相談しました。しかし「正直厳しい」と言われたり、「2年後があるかどうか・・・」と言われたりしました。
今となっては7カ所も相談に行かなくてもよかった・・・と思ったりしますが、当時は最善の道を探るために、情報がほしくてたまりませんでした。

私のがんの診断を聞き、当時銀行に勤めていた母は、仕事を辞めて闘病に付き添ってくれました。父も赴任先のバンコクから、急きょ日本に戻ってきてくれました。両親や妹は「仕事の代わりはいるけど、家族を支える代わりはほかにいないから」と言ってくれました。

家族には「心配かけてごめんね」という気持ちでいっぱいでした。

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