「画鬼」と呼ばれた河鍋暁斎。どんな絵師だった?
狩野派と浮世絵のハイブリッド絵師
河鍋暁斎『応需暁斎楽画 第九号 地獄太夫がいこつの遊戯をゆめに見る図』, Public domain, via Wikimedia Commons.
河鍋暁斎(かわなべきょうさい。1831-1889)は、日本の伝統画法である狩野派から、浮世絵、そしてユーモアあふれる戯画まで、さまざまなジャンルを手がけた天才絵師として知られています。
暁斎は1831年、下総国古賀(現在の茨城県古河市)に生まれました。
定火消同心の父に連れられ江戸に出た暁斎は、数え7歳の頃、歌川国芳に入門し、その後10歳で駿河台狩野派の前村洞和へ弟子入りしました。
才能が認められ、19歳という若さで狩野派の修行を終えた暁斎は、狩野派の画法に加えて浮世絵の制作も始めました。それが瞬く間に話題を呼び、人気絵師の地位を獲得したのでした。
生首を写生、戦場跡を見学……驚きのエピソード
河鍋暁斎, Public domain, via Wikimedia Commons.
暁斎の画業人生には、常軌を逸したエピソードがいくつも残されています。
・9歳の時、河原で拾った人間の生首を写生した
・16歳の時、火事場の様子を写生した
・38歳の時、上野戦争の戦場跡を見に行った
これらのエピソードは、絵の研鑽のためなら生首を拾い、戦場跡で大量の死体を写生するなど、狂気とも思えるほどの情熱で画業に打ち込む暁斎の生き様がよくわかるものです。
洞和は、暁斎の類まれな才能を評価して「画鬼(がき)」と呼んでいました。
40歳の時には、書画会で酔った時に描いた戯画が問題となり、投獄される事件もありましたが、破天荒で型破りな、まさに「画鬼」にふさわしい人生を送りました。そして1889年(明治22年)に、胃癌のため病没しました。
※定火消同心……江戸幕府によって設置された消防組織のこと。
暁斎が活躍したのは?日本が大きく変化した激動の時代
河鍋暁斎『閻魔大王浄玻璃鏡図』, Public domain, via Wikimedia Commons.
絵師としての暁斎は、幕末から明治にかけての激動の時代を生きていました。
彼が多彩な才能を発揮した背景には、急激な時代の変化が大きく関係していたのです。
それまでの日本では、狩野派・琳派と呼ばれる絵師たちが、長く日本の伝統画法を守ってきました。
彼らの主な顧客は、幕府や公家など高位の身分にある人々でしたが、明治維新によって身分制度が廃止され、狩野派や琳派の絵師たちは顧客を失うことになります。
しかし暁斎は、狩野派の肉筆画はもちろん、歴史画、戦争画、動物画、七福神などの縁起物、そして幽霊や地獄絵図といった多岐にわたるジャンルの作品を描き続けました。
あらゆる画法を学んで血肉にし、そこに独自の奇想的な個性を見出すことで、唯一無二の存在となったのです。
