縄文土器の代名詞 縄文の登場
それから約1000年後、いよいよ「縄文」が出現します。読んで字のごとく縄で作られた文様で、縄は植物から繊維を取り出し、それを撚って作られました。
縄を押し付けたり、転がしたり、また木の棒などに巻き付け引いたりと、様々な方法で土器の表面を飾りました。「多縄文(たじょうもん)土器」と呼ばれ、縄を自由自在に扱うことで表現の幅がより広がったと考えられるようです。
「JOMON ARCHIVES ― 北海道・北東北の縄文遺跡群デジタルアーカイブ ―」収録
さて、既に「縄文」がない縄文土器があるということにお気づきかと思いますが、なぜ「縄文土器」や「縄文時代」などと呼ばれるようになったのでしょうか。
縄文土器の名称は明治の初期、アメリカ人の学者エドワード・S・モースが東京・大森貝塚を発見&発掘した時に、”cord marked pottery”と叫んだことから名付けられたと言われています。
彼がその時見たのは、今から約3000~4000年前の縄文時代の終わり頃の「縄文」が施された土器でした。言うなれば、モース博士が偶然「縄文」のある土器を発見したことから、それがそのまま縄文土器となり時代の名称となったのです。
縄文土器の全体を見渡すと「縄文」がない土器は多く存在し、特に西日本では「縄文」を用いない装飾の土器が多く作られています。
土偶の出現と祈りの形
縄文時代の土偶の始まりは、約12000年前に滋賀県と三重県で作られた2体であると言われています。
そのうち滋賀県の土偶は、まるでトルソーのような女性の美しい曲線をかたどった造形です。高さは僅か3.1㎝、支えが無くても自立でき、表面は滑らかで、粒子の細かい土を用いて丁寧に作られています。
女性を思わせる造形には、安産や子孫繫栄といった祈りがこめられていると考えられています。
相谷熊原遺跡出土品(滋賀県指定文化財)より、土偶(滋賀県所蔵), Public domain, via Wikimedia Commons.
この土偶が作られたのは、縄文土器の誕生から約4000年後です。
当時は狩猟に弓矢が使われ、食料を確保する時間がより短縮され、縄文人たちの余暇の時間が増えていきました。そうした中で生まれたのが、様々な趣向を凝らした土器や石器、編み籠、装飾品などの手仕事の文化です。この土偶は、その一つでした。
その背景には、竪穴住居を構え一か所に定住することで生まれた、新たな「人間社会」にも要因があったと考えられるようです。竪穴住居を作るには、石の道具で木を切り倒し、土を掘り込み、その後も多くの人の手と時間を必要とします。
また縄文土器を作るにも、粘土に適する土を探したり成形する手間暇の他にも、焼き上げるまでには何十時間もの時間がかかり、その燃料となる木材も相当なものであったと思われます。
定住生活は、コミュニティなしでは成り立たないものでした。そしてそこでは当然のように、子供の誕生や人の死、災害など、生活の様々な問題がおこります。そういった社会を治めるにはリーダーが必要となりますが、ところが縄文時代にはそうした権力を持つ人はいませんでした。
そこで皆が平和に過ごすためには、心を一つにする「ナニカ」が必要となります。 それが「祈り」であったようです。
自然と共に生きる時代、すべては祈るしかありませんでした。その「祈り」の道具として作られたのが精緻に作られた土偶であり、後に奇想天外とも言える創造性豊かな文様や形態を持つ土器や石器などであったのです。
各々のムラで自分たちのアイコンとなる土偶や土器などを創り、祭祀などでそれを使うことで、精神的な結びつきを築いていたと考えられています。
