アデーレ・ブロッホ=バウアーと黄金の女, Public domain, via Wikimedia Commons.
金色の輝きに包まれた一枚の絵がある。《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》。
グスタフ・クリムト《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》(部分)1907年, Public domain, via Wikimedia Commons.
描いたのはグスタフ・クリムト。モデルはウィーン社交界の華、アデーレ・ブロッホ=バウアー。だがこの絵が“黄金の女(Woman in Gold)”と呼ばれるようになったのは、戦争がすべてを奪った後のことだった。
そして、半世紀を経てその絵を取り戻したのは、アデーレの姪、マリア・アルトマンであった。これは、ひとりの女性が家族の記憶と名誉を取り戻すまでの、長い闘いの物語でもありました。
伯母アデーレと姪マリア
マリア・アルトマンは1916年、ウィーンに生まれた。裕福なユダヤ系の家庭で育った彼女にとって、伯母のアデーレ・ブロッホ=バウアーは特別な存在だった。
子どもを持たなかったアデーレは、妹マリーの娘であるマリアをまるで自分の娘のように可愛がり、よく屋敷に招いては、絵や音楽、詩の話をして聞かせたという。幼いマリアの目に映るアデーレは、静かで品があり、少し憂いを帯びた大人の女性だった。
アデーレ・ブロッホ=バウアー, Public domain, via Wikimedia Commons.
その屋敷は、ウィーンの芸術家や思想家が集う華やかなサロンでもあった。知的で進歩的な女性として知られたアデーレのまわりには、つねに文化と会話の香りが漂っていた。
夫のフェルディナント・ブロッホ=バウアーは砂糖業で巨万の富を築き、画家グスタフ・クリムトを支援していた。夫妻のもとには当時の芸術家たちが訪れ、ウィーンの黄金時代を象徴する文化の中心のひとつとなっていた。
1903年頃、夫妻はクリムトにアデーレの肖像画を依頼する。3年の歳月をかけて完成したその絵 《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》(1907)は、金箔のきらめきに包まれた傑作として知られている。
グスタフ・クリムト《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》1907年, Public domain, via Wikimedia Commons.
アデーレの静かな眼差しは、威厳と知性、そして孤独を湛えている。後年の伝記では、アデーレは「何かを成し遂げるために生まれたのに、何もできずにいる」と感じていたとも伝えられている。
彼女にとって芸術を支えることは、自らが社会に参加する手段でもあった。そしてその思いが、金の中に閉じ込められたこの肖像に刻まれている。
奪われた家と名
1925年、アデーレは43歳でこの世を去った後、夫フェルディナントは、彼女の死後もこの肖像を大切に守り続けた。だが、1938年、ナチス・ドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)が起こる。
ユダヤ人であったブロッホ=バウアー家は資産の没収を命じられ、夫妻の邸宅やコレクションはすべて国家の管理下に置かれた。フェルディナントはスイスへと亡命し、亡命先で生涯を終える。一方、アデーレの姪マリア・アルトマンは若き夫とともに命からがらウィーンを脱出し、アメリカへと渡った。
