
見えないものを描くリアリズム
1967年、北海道生まれ。武蔵野美術大学大学院を修了後、スペインに留学。
卓越した写実技術と徹底したリサーチを基に、諏訪は一貫して「見えないものを描く」ことに挑み続けてきました。
諏訪敦、内覧会にて
戦争や事故で亡くなった人々の肖像、古典文学や神話の登場人物を現代に再構成する作品など──。
その筆致は、肉体を超えて不在・記憶・時間を描く領域へと踏み出しています。
絵画とは、存在しないものを「もう一度生かす」行為。
静かにそう信じるように、彼の作品は、生と死のあわいに立ちながら、「描くこと」「見ること」の意味そのものを問い続けています。
第1章「どうせなにもみえない」
展覧会は、諏訪の代名詞ともいえる精緻な写実作品から始まります。
頭蓋骨を持つ女性像、頭部だけが骨になったキリン、豆腐の柔らかさを描いた静物画。
諏訪敦《どうせなにもみえない Ver.4.5》2012年
初見の観客にも、彼の「リアリズムの到達点」が印象づけられる章です。
しかし諏訪は、この写実を「再現」で終わらせません。
彼は言います。
「どれだけ精緻に描いても、人物の“内側”までは描けない。」
つまり、絵は“見えるもの”を提示しながら、同時に“見えないもの”を探る装置なのです。
実物大で描かれた、頭蓋骨と生身の体がコラージュされたキリンの絵《Untitled》は、彼が自然史博物館で実際に動物の解剖を見た経験をもとに再構築したもの。
皮膚、筋肉、骨の関係を観察し、生命の不在を逆説的に描き出しています。
左から諏訪敦《Untitled》2007年と諏訪敦《水の記憶》2003年
写実の完成度を味わううちに、観る者はふと気づくでしょう。
どれほど緻密に時間を止めようとすればするほど、絵の中には「死の気配」が静かに立ちのぼっていることに。
諏訪の写実とは、現実を写す技術ではなく、時間を止めることで「死」と向き合う方法なのです。
この矛盾こそ、彼が長く探り続けてきた「見えないもの」への入り口です。
会場のようす
