第2章「喪失を描く」
この章では、諏訪が長年向き合ってきた「喪失」をテーマにした作品が並びます。
戦争や災害、事故で命を落とした人々──彼はその“亡き人”たちを、写真ではなく残された人々の記憶から再構成して描きます。
たとえば、取材中に亡くなってしまったジャーナリストの山本美香さんを描いた肖像。
諏訪は、生前の写真をもとにするだけでなく、遺族や関係者への取材を通して記憶を掘り起こしながら、亡き人の姿を再構成してきました。
それは、現実の再現ではなく、記憶の中に生き続ける人物を絵画として呼び戻す試みでもあります。
もう一つ印象的なのが、《正しいものは美しい》という夭折した青年の肖像画です。
この作品では、「私たちは息子に会いたいのです」という依頼を受けた諏訪がまず両親・弟妹のデッサンをしたり、家族の記憶の中にいる青年像を少しずつ形にしていきました。
さらに、青年と同じ体格の人物の身体を石膏で型取りし、そこから身体のパーツを再構築。
その触覚的なプロセスによって、記憶の“輪郭”を手で確かめるように描いたといいます。
こうして生まれた肖像には、単なる「似ている」を超えた現実感が宿ります。
生者と死者の境界を曖昧にしながら、「いなくなった人をもう一度この世界に現す」ような静かなリアリズムです。
諏訪は絵画を「ゾンビ・メディア」と呼びます。
何度“絵画は死んだ”と言われても、まだ生き続けるもの。
AIが容易にイメージを生み出せる時代にあって、彼の絵は手で描くことの“時間”と“重さ”そのものを提示しています。
第3章「横たえる」
この章には、諏訪が家族の死と向き合った作品が並びます。
満州へ渡った父方の祖母は、終戦の混乱のなかで亡くなりました。
諏訪はその出来事を手がかりに、中国東北部を取材し、当時の光や風景、土地の記憶を丹念に追いながら、絵画として再構築しました。
《HARBIN 1945 WINTER(Esquisse)》は、祖母の死をめぐる記憶を現在に呼び戻す試みとして発表された代表作のひとつです。
それは、記録のない人を“もう一度この世に現す”試みでもあります。
会場のようす
祖母から父へ、そして母へ。
家族を描く作品群は、家族を見送る時間の記録そのものです。
父の死を描いた《father》では、息子の視点から死を見つめる距離感が、静謐な筆致に込められています。
母を描いた四つの新作は、介護の合間に描かれたスケッチをもとにしています。
筆は静かに、しかし確かに、「消えゆく生」を見届けています。
「人を描きたい気持ちが失われた」と語っていた諏訪が、
母の病床でスケッチを再開したとき、
「久しぶりに“人”を描いた」と記しています。
死を前にした身体を描くことは、もはや静物と人物の区別を超えています。
だからこそ彼は問いを立てました。
「死んだ人間は、人物なのか? 静物なのか?」
この章の作品群は、その問いに対する静かな応答の連なりです。
諏訪敦《mother / 16 DEC 2024》2024年
そして、家族の絵の中に一枚だけ異彩を放つ小さな絵があります。
スペイン滞在中に出会った雌猫《Campanilla》(カムパニージャ)の肖像。
諏訪にとって初めて「家族」と呼べる存在で、その最期を看取った経験は、“死の主題”をより身近で穏やかなかたちで見つめ直す契機となりました。
人間の死を描いた大作の中で、この小さな猫の絵は、喪失の連続の中に残る“生の温もり”を静かに伝えています。
諏訪敦《Campanilla》2008年
家族の死、そして一匹の猫の死。
そのどちらも、「描く」ことの根にある“見届ける”という行為の延長にありました。
静謐でありながら、深い祈りの気配をたたえる章です。
