ハリウッドにて制作が決定している『SHOGUN 将軍』シーズン2。新キャストとして、Snow Man・目黒蓮さん、水川あさみさん、窪田正孝さんらの参加が決定し、大いに盛り上がっています。
シーズン1にひきつづき、本作でも時代考証家としてドラマ制作に携わることとなった、フレデリック・クレインスさんの著書、『戦国武家の死生観』より、一部を再編集してご紹介します。
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戦国時代の切腹の多面的な性格
下野(栃木県)の有力な国衆の佐野氏について書かれた軍記物『唐沢城老談記』から、佐野宗綱の家臣の切腹について書かれた一節を紹介しましょう。
大抜越中守は、元旦の出陣に供をしなかったことがある。たしかに越中守は諫言をしたが、主君である宗綱は立腹して彼を用いなくなった。出陣は避けられない状況だったが、越中守の主張にも一理あった。しかし、彼の本心は計りかねるところがあり、本城の留守居も任されなかった。
宗綱は何も意見を述べずに出陣してしまったが、越中守が後に残ったことは本意ではなかった。留守城番はつねに緊急時のために命じられるものだから、通常の家臣たちはそれでよいのだが、越中守のような重臣が残る場合は違う。たとえ本心から残ったとしても、大抜家の者である以上は是非なく、必ず裏切るだろうと考えられた。
そこで、富士源太、竹沢山城、山越才吉、津布久弾正、細野次郎左衛門を始めとする三十余人の侍大将と、数百騎の軍勢が大抜越中守の居城に押し寄せた。越中守は佐野四天王の一人で、一騎当千の武将だったが、しだいに家老たちとの不和が深まり、宗綱の討死の後、間もなく、〔敵軍と〕戦うこともなく切腹したのだった。
この場合の切腹は、直接的な失態というよりも、主君との不和、家老との対立など、複合的な要因が積み重なっての結末です。越中守は戦う力があるにもかかわらず、武士としての最後の意思表示として切腹を選択したのです。
戦わずに自害することを選ぶ背景には、感情が武士の行動に大きな影響を与えていました。越中守の行動は、江戸時代の儒教的な武士像からかけ離れています。それは、戦国時代において、主君と武士は形而上的な倫理観で結ばれていたのではなく、感情的な絆で結ばれていたからです。
この事例は、先の山上藤七郎の事例よりも複雑な切腹の様相を示しています。主君の信頼を損なったことに対する責任からというよりも、複雑な状況に陥った越中守が感情的に切腹にいたった様子が描かれています。感情的な切腹は戦国時代の史料によく見られます。戦国時代における切腹の多面的な性格を理解するうえで、把握しておくべきでしょう。

自己実現のために自害する武士の姿
戦国時代の切腹が名誉回復の方法であったことは前述したとおりですが、さまざまな史料を読むと、むしろ積極的に称賛される行為ととらえられていたことがわかります。
たとえば、「信長公記」巻一四には越中願海寺城主の寺崎盛永と、その息子・喜六郎に関する次のような記述があります。寺崎父子は何かの事件について尋問され、その後、佐和山城で監禁されていました。
七月一七日、佐和山において、痛ましい出来事があった。
越中の寺崎盛永とその子息の喜六郎が、(信長により)生害を命じられた。息子の喜六郎はまだ一七歳という若さで、眉目秀麗、姿形も類まれな美しさをもつ若者だった。
まず、父の寺崎盛永が本来の作法として、腹を切り、若党(従者)が介錯を務めた。その後、喜六郎は父の腹から流れ出る血を手に受け、それを嘗めながら「私もお供いたします」と言って、凜として腹を切った。これは比類なき働きであり、まことに目を覆いたくなるような出来事だった。
江戸時代には刑罰の一種となる切腹が、戦国時代には称賛される行為であったという価値観の逆転現象は、なぜ起こったのでしょうか。主君の命令に従って切腹をしたこの例においてもなお、切腹を刑罰としてではなく、武士の規範としてとらえて、分析し直してみましょう。
「信長公記」の記述からは、切腹の本質的な要素として、次のような特徴を読み取ることができます。
寺崎盛永と喜六郎の切腹は、たしかに命令を受けたことがきっかけではありましたが、その後の対処の仕方に重点が置かれています。武士としてゆるぎない覚悟のうえでの死に様を伝えているのです。
また、「比類なき働き」という評価は、彼らの行為が武士としての称賛すべき生き方を体現したものとして認識されていることを示しています。
さらに、父の血を嘗めるという喜六郎の行為は、親子の絆と武士の誠の表現として描かれています。面白いことに、この描写では、定着してきた江戸時代の重々しい儀式的な切腹のイメージと違って、当事者の感情的な側面に重点が置かれ、かなり荒々しく、また生々しく切腹の場面が表現されています。
切腹は命じられたものであっても、それを実行する態度において、武士としての自己を完成させる機会としてとらえられていました。とくに、若年の喜六郎の凜とした態度は、武士としての称賛すべき生き方の達成として高く評価されているのです。
このように、切腹を武士の規範として見ると、それは武士がみずからの死に様を実現する手段として機能していたことがわかります。命令や刑罰、儒教的な倫理などという外的要因ではなく、武士としての内面的な価値観の表現として切腹が位置づけられていたと解釈できます。

