秀吉が書き留めた柴田勝家の最期
戦国時代の女性の自害の例として、お市の方の逸話も紹介しましょう。
織田信長の妹とされるお市の方は、当初、近江の浅井長政に嫁ぎますが、兄の信長によって浅井家が滅ぼされると、織田家に引き取られ、やがて信長の死後に柴田勝家に再嫁します。
しかし、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた勝家は、天正一一(一五八三)年四月、居城の越前北ノ庄城で自害に追い込まれます。その際、お市の方も勝家とともに自刃しました。
当時の様子を記した秀吉の書状が残されています。同年五月一五日付、小早川隆景宛ての書状から、まずは夫である勝家の最期を現代語訳で見てみましょう。
城内に石の蔵を高く築き、天守を九重にまでつくり上げたところへ、柴田の軍勢二〇〇人ほどが籠城していた。城内に閉じこもっているので、こちらの総勢をもって城に攻め入れば、互いに応戦し、負傷者や死者が出ることは避けられない。そこで、総勢のなかから精鋭を選び出し、天守をめざして攻撃した。
天守ゆえ、矢や鉄砲を使って攻め入ったが、北ノ庄城の柴田勝家は、日ごろから武芸を積んだ武士だったので、七度も切り返して出てきた。しかし、とうとう防ぎきれず、天守の九重の最上階に上がった。
そこで、勝家が総勢に呼びかけて、「自分が腹を切る様子を見て、後学のためにしなさい」と言った。その言葉を聞いた心ある侍たちは、涙をこらえ、鎧の袖で顔を覆った。すると、その場にいた者たちは皆、東西の隅々まで、しんと静まり返った。
その後、勝家は妻子や一族をみずから刺し殺し、身寄りのいない者八〇名は切腹し、申の刻(午後四時ごろ)に果てたとのことである。
死は、名誉ある人生を完結させる「晴れ舞台」
この書状に記されている柴田勝家の最期の場面には、戦国武家が高く評価していた死の形が表れています。勝家は「自分が腹を切る様子を見て、後学のためにしなさい」と家臣たちに呼びかけます。これは単なる自害ではなく、後世に語り継がれるべき「模範的な死」として演出されています。武将たちにとって、最期のときはみずからの生き様を集大成として示す「晴れ舞台」だったのです。
さらに、勝家だけでなく、妻子や親類、家臣たち八〇余名がともに死を選んでいます。これは主君との絆を最後まで貫く武士の生き方を示すとともに、一族の名誉を守るための選択でもありました。
こうした死生観の根底には、名誉と評判を何より重んじる武家社会の価値観があります。「どう死ぬか」は「どう生きたか」と同等か、それ以上に重要視され、その最期の有様は伝説として後世に伝えられ、家名の誉れとなったのです。秀吉がこの書状で勝家の最期を詳細に記録したことも、敵将とはいえ、その死に様を価値あるものとして認めていたことを示しています。
勝家が後世に名を残すことを望んでいたとすれば、その願いはみごとに成功を収めました。その名声は現代にまで伝わるだけでなく、当時においてはイエズス会士までもがその壮絶な最期を詳細に記録し、遠く西洋の地においても名を知られるほどの人物となりました。


