ルーベンス《三美神》を紐解く――プラド美術館の名画解説

映画『プラド美術館 驚異のコレクション』(2020)

参照:『プラド美術館 驚異のコレクション』

スペイン・マドリードのプラド美術館には、王室コレクションをはじめとする幅広いヨーロッパ絵画が収蔵されています。ティッセン=ボルネミッサ美術館、ソフィア王妃芸術センターと合わせて「マドリードの芸術黄金地帯」と呼ばれ、2021年にユネスコの世界遺産に登録されました。

1024px-Museo_del_Prado_2016_(25185969599)プラド美術館(正面), Public domain, via Wikimedia Commons.

ベラスケス、ゴヤ、グレコ…。映画では名作の数々にカメラが迫ります。また、館長から有名女優まで、プラド美術館を愛する人々の声を集め、新しい魅力を掘り起こしました。オスカー俳優のジェレミー・アイアンズさんがナビゲーターを務め、まるで現地ツアーに参加しているような気持ちになれる作品です。

特別な政治的意図なく、歴代の国王や王妃は心の赴くままに、これまで約2300点の芸術作品を収集しました。2019年に開館200周年を迎え、「美の喜び」を広く伝えることで、スペインの風土に深く根付いています。

そんなプラド美術館に、ピーテル・パウル・ルーベンスの代表作《三美神》が展示されています。今回はその魅力を一緒に紐解いていきましょう。

ピーテル・パウル・ルーベンスの生涯

1024px-Sir_Peter_Paul_Rubens_-_Portrait_of_the_Artist_-_Google_Art_Projectピーテル・パウル・ルーベンス, Public domain, via Wikimedia Commons.

1577年、ピーテル・パウル・ルーベンスはドイツのジーゲンに生まれました。10歳で父親を亡くすと、一家は故郷のアントワープへ戻ります。カトリック教徒として成長したこともあり、後年は対抗宗教改革(カトリック教会内の改革刷新運動)に影響された絵画様式を用いました。

家庭の経済的困窮により、13歳でルーベンスはマルグレーテ・ド・リーニュの小姓(屋敷に仕える少年)となりました。そこで芸術的素養を見込まれ、アントワープの画家組合、聖ルカ・ギルドに入会を認められます。アントワープの有名画家たちに師事し、修行を終えた後、正式に芸術家ギルドの一員となりました。

イタリア時代

1600年、巨匠の作品を現地で学ぶため、ルーベンスはイタリアへ渡ります。ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガの援助を受け、翌年にはローマを訪れました。カラヴァッジオ《キリストの埋葬》の複製画を制作したり、最初の祭壇画《聖へレナと聖十字架》を完成させたりと、活動の幅を広げていきます。

1603年、マントヴァ公からスペイン王フェリペ3世への贈答品を届けるため、外交官として彼はスペインへ向かいました。滞在中、フェリペ2世の収集した名作群を目にしたそうで、《レルマ公騎馬像》にはティツィアーノの影響が見られます。

1024px-Retrato_ecuestre_del_duque_de_Lerma_(Rubens) (1)ピーテル・パウル・ルーベンス《レルマ公騎馬像》(1603)/プラド美術館, Public domain, via Wikimedia Commons.

1606年から1608年にかけて、多くの時間をローマで過ごしたルーベンス。建築中だったサンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂の主祭壇画を制作する依頼も受けます。イタリアでの経験はルーベンスに大きな影響を与え、晩年もイタリアへの帰還を望んでいましたが、実現しませんでした。

アントワープ時代

1024px-Peter_Paul_Rubens_-_Raising_of_the_Cross_-_WGA20204ピーテル・パウル・ルーベンス《キリスト昇架》(1610〜1611)/聖母マリア大聖堂(アントワープ), Public domain, via Wikimedia Commons.

母の病と戦争休戦をきっかけに、ルーベンスはアントワープに戻ります。1609年、スペイン領ネーデルラントの君主・オーストリア大公アルブレヒト7世と、大公妃(スペイン王女)イサベルのもとに、宮廷画家として迎えられ、特使や外交官の役割も果たしました。また同年、地元の有力者の娘と結婚します。

聖母マリア大聖堂の『キリスト昇架』や『キリスト降架』といった祭壇画は、イタリアから帰還したばかりの彼が、フランドルで画家としての評価を確立した作品です。たとえば『キリスト昇架』は、ティントレット《キリスト磔刑》の構成をベースにしつつ、ミケランジェロの人体表現にルーベンスの作風を交えており、「バロック期宗教画の最高峰」と称されています。

外交官時代

1621年、戦争が再開されると、スペイン・ハプスブルク家の君主たちはルーベンスに外交的任務を与えます。特に1627年から1630年にかけ、両国の和平に向けて奔走したそうです。

1628年から1629年にはマドリードに滞在し、スペイン王室の依頼で絵画作品を制作しました。その後は別の任務でロンドンに渡ります。滞在中に《マルスから平和を守るミネルヴァ(平和と戦争の寓意)》を描き、平和に対する強い願いとともに、イングランド王チャールズ1世に贈られました。

1024px-Rubens_peace-warピーテル・パウル・ルーベンス《マルスから平和を守るミネルヴァ(平和と戦争の寓意)》(1629)/ナショナル・ギャラリー, Public domain, via Wikimedia Commons.

そうした功績が認められ、1624年にスペイン王フェリペ4世から、1630年にイングランド王チャールズ1世から、それぞれ「ナイト」の爵位を授かりました。1629年には、ケンブリッジ大学から美術修士号を授与されています。

晩年

1630年、53歳のルーベンスは、16歳のエレーヌ・フールマンと再婚します。彼女をモデルに、晩年は肉感的な女性像を多く描きました。私的に描いたエレーヌの肖像《毛皮をまとったエレーヌ・フールマン》では、古代ギリシャ彫刻に見られる「恥じらいのヴィーナス」のポーズ(陰部や胸を手で隠す構図)が用いられています。

Peter_Paul_Rubens_019ピーテル・パウル・ルーベンス《毛皮をまとったエレーヌ・フールマン》(1638ごろ)/ウィーン美術史美術館, Public domain, via Wikimedia Commons.

1635年にアントワープ郊外の土地を購入すると、「ステーン城(ルーベンスの城)」と呼ばれる邸宅でほとんどの時間を過ごします。《早朝のステーン城を望む秋の風景》などの風景画や、《村祭り》などの伝統的風俗画を描いた後、1640年に人生の幕を閉じました。

配信元: イロハニアート

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