その人が画面に映ると、目を逸らせなくなる俳優というのは確かにいる。その筆頭が田中泯だ。出演シーンがわずかだったとしても、主役を食ってしまうことさえある。そんな田中だが、彼が俳優を始めたのは57歳のとき。あくまでも、彼の本職はダンサーだ。
■芸名の由来は「ほろびる」「つきる」「まじる」
田中は、1945年3月10日、東京大空襲のその日に生まれた。もちろん、本人にその記憶が残っているわけではない。けれど、そのときのことを何度となく聞かされて育った。そのため「小さな頃からずっと、“世界”というものに興味を持ち、いろいろなことを考えるように」(「双葉社 THE CHANGE」2024年5月28日)なったという。
「泯」という芸名をつけたのも、「ほろびる」「つきる」「まじる」といった意味合いがあるということを気に入ったのに加えて、いつか外国へ行くと考えて、海外の人が呼びやすい名前としてつけた。学生時代は、バスケットボールに熱中した。国体レベルの選手だったが、大学では完全実力主義の世界で、上には上がいると思い知らされ挫折。そんなとき、幼い頃から踊りが好きだったことを思い出した。
■衝撃を受けた踊り
原点は盆踊りだった。祭りの神楽のお囃子が聞こえてくると、体がうずうずして、大人たちの輪に交じって夢中で踊っていた。バスケを大学1年で辞めた田中は、本格的にダンスを学ぶようになった。クラシックバレエやモダンダンスを習ったが、自分が目指す踊りとは違うのではないかと感じていた。
そんなときに見たのが、「暗黒舞踏」の創始者である土方巽による「土方巽と日本人―肉体の叛乱」(1968年)だった。それまでの常識から外れた踊りに衝撃を受け、「そうか、やっていいことは無限にあるんだ!」(「婦人公論」2022年1月28日)と開眼した。
客席を疑い、音楽を疑い、舞台を疑い、衣裳を疑い、既存のダンス公演の形態のすべてを疑った結果、劇場では踊らず、「頭や眉などの体毛をすべてそり上げ、ペニスだけ包帯で巻いて『自分』を消して踊り始めた」(「朝日新聞」2023年10月14日)。そうした表現だったため、警察に捕まってしまったりもした。
■フランスで絶賛された、ほぼ全裸での踊り
転機になったのは、1978年、パリの芸術祭に招待されたこと。公園や街角などでほぼ全裸で踊ると、日本では裸の是非を議論されるばかりだったが、フランスでは踊り自体が絶賛された。中でも哲学者のロジェ・カイヨワは、「人から名付けられるような踊りではなくて、いつまで経っても、誰も何と言っていいかわからないような状態というのを維持してほしい」(「美術手帖」2022年1月10日)と深い共感を寄せた。これを機に世界各地で公演を行うようになった。
そうした中、57歳のときに、彼の公演を見た山田洋次が、映画「たそがれ清兵衛」(2002年)への出演を打診したのだ。演じたのは真田広之扮(ふん)する主人公と敵対する剣豪役。もちろん、演技は初めて。セリフを発する方法すらわからなかった。俳優は長い時間をかけてセリフの技を磨く。だが、それは自分にはできない。ならば自分は「体の技を磨いて、そしてその磨かれた体から出る言葉をセリフにしよう」(「SWITCHインタビュー 達人達」2022年4月4日NHK Eテレ)と決めた。
■「泯さん、踊ってた」
映画の中で主人公と壮絶な斬り合いの末に命を落とすシーンは“伝説”となっている。このシーンを撮る際、山田洋次は、「泯さん、踊って」と言ったという。その言葉通り、踊るように演じ、このシーンを見た人たちからも「泯さん、踊ってた」という感想が寄せられた。
彼はそれまで自分の踊りを映像化することを拒んでいた。それは、踊っているときの実感が映像にはあらわれないと感じていたからだ。しかし、「たそがれ清兵衛」ではそれが映っていた。それをきっかけに、映像の面白さを知り興味を持った。俳優の仕事も「好奇心を満たすものであるかぎり、続けよう」と思うようになった(「ほぼ日刊イトイ新聞」2022年1月28日)。
以降、犬童一心監督による映画「メゾン・ド・ヒミコ」(2005年)から、大ヒット中の映画「国宝」(2025年)に至るまで様々な映画・ドラマで唯一無二の存在感を放ってきた。「見た人が『存在感』という言葉で表すものが何なのかは、むしろ、僕の方が知りたいぐらい」(「SANZUI」vol.10―)と彼は言う。だが、田中はダンサーとしてずっと「存在することに賭けてきた」(同)。その身体性こそが“名付けようのない”存在感を生み出しているのだ。
文=てれびのスキマ
1978年生まれ。テレビっ子。ライター。雑誌やWEBでテレビに関する連載多数。著書に「1989年のテレビっ子」、「タモリ学」など。近著に「王者の挑戦 『少年ジャンプ+』の10年戦記」
※『月刊ザテレビジョン』2025年12月号

