ハリウッドにて制作が決定している『SHOGUN 将軍』シーズン2。新キャストとして、Snow Man・目黒蓮さん、水川あさみさん、窪田正孝さんらの参加が決定し、大いに盛り上がっています。
シーズン1にひきつづき、本作でも時代考証家としてドラマ制作に携わることとなった、フレデリック・クレインスさんの著書、『戦国武家の死生観』より、一部を再編集してご紹介します。
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日本を二分する大合戦、関ヶ原の轟音
慶長五(一六〇〇)年九月一五日──。
関ヶ原のすぐ東に位置する垂井の南にある「岡ヶ鼻」と呼ばれる山に、吉川広家、長宗我部盛親、長束正家、安国寺恵瓊ら約二万の軍勢が弓や鉄砲を前に構え、段々に布陣していた。
この方面への攻撃部隊として、池田輝政、浅野幸長、駿河衆、遠江衆が派遣された。家康も軍勢を整え、御馬廻り(親衛隊)を率いて、魚鱗や鶴翼の陣形を組んだ。その朝は霧が深く立ちこめ、さらに小雨が降り、周囲の様子がほとんど見えなかったが、巳の刻(午前一〇時ごろ)になると空が晴れ、遠くまで見渡せるようになった。
早速、酒井左衛門と祖父江法斎、森勘解由らが物見に向かった。すると、西軍も斥候を出していたのか、出会い頭にいきなり戦闘が始まった。兵たちは勇猛に戦い、みな功名をあげようとして奮闘した。
これを見て、西軍の本隊も動いた。石田三成と島津義弘、小西行長らが軍旗を翻しながら藤川を越えると、不破の関屋を経由して北野の原や小関村を通過し、南東の方角へ向かって軍勢を展開した。
また、大谷吉継と宇喜多秀家、平塚為広、戸田勝成と内記父子らは、石原峠付近に布陣していたが、陣を後退させて谷川を越え、関ヶ原北野方面へ軍勢を移動させた。
こうした動きに対して、東軍の諸武将は西北の山手を背にしながら、東南へ向けて足軽を繰り出した。そして、先陣を務めたのは福島正則、細川忠興、黒田長政、井伊直政、本多忠勝、大野治長らである。彼らは、たくましい葦毛の馬に乗り、白い切り裂き模様の旗印を掲げながら、西へ向けて軍勢を進めた。
間もなく、先陣の軍勢がいっせいに戦いを仕掛けた。これに西軍側も応じて、両軍の武将たちは思い思いに戦いを繰り広げた。押したかと思えば押し返され、引いたと見せて押し出し、激しい戦闘が続いた。
そのとき、早智七右衛門と名乗る武士があらわれ、大野治長がその首を取った。そして、七右衛門の首を家康に届けて報告したところ、治長は褒美をたまわった。続いて、福島正之も討ち取った首を家康に披露した。家康は、それぞれにありがたい言葉をかけた。
両軍はともに退かず、押し合い、鉄砲を撃ち合い、戦場には矢の飛び交う鋭い音が響いて、大地は揺れるようであった。また、ところどころに黒煙が上がり、真昼にもかかわらず、一帯は闇夜のようになった。
入り乱れる両軍の将兵たちは、それぞれに革具を身につけて、武器を振りかざした。武器と武器がぶつかり合い、刃先から火花が散った。日本を二分する大決戦にふさわしく、激しい戦闘が続いた。
織田有楽斎と息子の長孝、古田織部、猪子一時、船越景直、佐久間安政と弟勝之の七将に目を転じると、彼らはいっせいに突撃を開始していた。そして、敵陣を突き崩し、敵の将兵を打ち倒しながら駆け抜け、それぞれに武功を挙げた。
そのとき、付近では津田信成が西軍の戸田勝成と激しく戦っていた。そこへ有楽斎の息子の長孝が参戦し、長孝と勝成との一騎討ちとなった。やがて、力尽きた勝成は長孝に突き伏せられ、その首を討ち取られた。織田父子といい、古田織部といい、その働きぶりは並ぶ者のないほどにみごとなものであった。
このとき討たれた戸田勝成の家臣のなかには、鶴見金左衛門という武勇にすぐれた男もいた。彼は、過去に数々の手柄を立てていたが、人柄にやや粗野なところがあった。だが、戸田勝成は彼を信頼し、長年にわたって彼に目をかけ続けていた。その恩に報いようとしたのか、彼は仲間たちとともに討死を覚悟で暴れ回ったという。

松平忠吉と井伊直政の無頼の武功
そのころ、金森長近と息子の可重、田中吉政らの軍勢は北の山側から石田三成や島津義弘に攻めかかっていた。また、大谷吉継や宇喜多秀家、平塚為広、戸田内記らの陣に向かって西へ押し出す武将もいた。
伊丹忠親や村越直吉、河村助左衛門、奥平貞治らも敵陣に斬り込み、馬から突き落とされても立ち上がり、奮闘した。谷利兵衛ら四名の武将たちも命をかえりみずに敵陣を切り崩し、それぞれに名をあげた。
その後、藤堂良政と島左近の長男である信勝が組み打ちになった。信勝は良政を押し伏せ、その首を討ち取った。だが、良政の小姓が駆けつけてきて信勝と斬り合い、こんどは信勝が首を取られた。島左近は行方が知れず、信勝の兄弟もみな討死したという。
やがて、戦場が混乱するなか、それまで西軍に属していた小早川秀秋と脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保が家康に忠節を示し、手のひらを返して敵に襲いかかった。これほど多くの軍勢が背後から突然、攻撃を仕掛けてきたため、西軍は戦線を持ち堪えることができず、ついに総崩れとなった。
そのとき、松平忠吉(家康の四男)は先を争うように敵陣に乱入し、おおいに奮戦した。まだ若年ながら、天下分け目の大決戦において、一隊を率いる大将みずからが数か所に傷を負いながら敵と組み打ちをするという勇ましい戦いぶりをみせた。これは徳川将軍家の威光を全国、津々浦々に轟かせるもので、後世の模範となる働きであった。
忠吉の岳父にあたる井伊直政も婿を後押しし、ともに敵陣に斬り込んだ。直政もまた傷を負うほどの壮絶な戦いであったが、無類の武功を挙げた。
西軍の大谷吉継は味方が崩れても戦い続けたが、ついに馬上で腹を切った。同じく平塚為広も最後まで戦い抜き、その姿は漢帝国の猛将樊噲にも劣らない勇猛さであったと伝わる。だが、小川祐忠に仕える桜井多兵衛という武士があらわれ、為広は死力を振り絞って戦ったが、首を討ち取られた。桜井は、その名誉ある武功を称えられた。
そして、戸田内記も最後まで戦い、奮戦の末に討ち取られた。
西軍の敗勢が明らかとなるなか、島津義弘は四方を敵に囲まれながら、みごとに包囲を突破して、戦場から脱出することに成功した。
一方、本多忠勝は敵陣に深く斬り込んだ。西軍はもはや持ち堪えることができず、藤川へと敗走した。西軍の将兵たちは伊吹山へ逃げ、また南宮山方面でも散り散りに逃げていった。こうして、天下を二分する大決戦は終わった。
その後、数十人分の首が家康のもとに届けられ、あらためて戦勝が確認された。首実検を終えた家康は、全軍にしばらくの休息を命じた。やがて、石田三成の居城であった佐和山城へ兵を差し向けた。
その夜、家康は大谷吉継が使用していた山中の陣屋を本陣として、井伊直政を先鋒に任じ、新たな布陣を整えた。馬廻を前後左右に配置して周囲を固め、万全の陣形を整えたのであった。


