現代戦にも通じる戦国時代の戦術
以上の軍記には東西両軍の武将が多数、登場するため、武将同士の関係性や戦況は複雑ですが、いかにも戦国時代らしい特徴的な合戦の推移が描かれています。
戦国時代の合戦は、多くの場合、次の三つの段階に分けることができます。
1、弓や鉄砲による応酬(矢合わせ)
2、槍による戦闘(槍合わせ)
3、刀による戦闘(首取り合戦)
それぞれについて、詳しく見ていきましょう。
1、弓や鉄砲による応酬(矢合わせ)
関ヶ原の戦いについての回想録では、戦場がまだ霧に閉ざされているなかで、両軍が放つ鉄砲の轟音が響き渡っていました。これは、鉄砲の応酬によって始まる戦国時代の合戦の様子をよくとらえた描写といえます。
合戦の冒頭で行われる鉄砲(あるいは弓)の撃ち合いには、主に二つのねらいがありました。一つは、敵側の状態を把握することです。
当時の武将たちは、敵陣との距離を維持したまま、飛び道具による攻撃を仕掛けることによって、それに対応する動きから敵軍の士気や戦術、さらには弾薬量などを推し量っていました。また、同様の目的で少数の足軽部隊を繰り出し、敵将の反応を見極める場合もあります。こうした前哨戦を足軽合戦(せり合い)と呼びます。
鉄砲の応酬や足軽合戦はあくまで情報収集が目的であったため、必ずしもそのまま本格的な戦闘に直結していったわけではありませんでした。もっとも、ときには敵陣の防御体制を探る意味合いで、冒頭から騎馬部隊を突入させる例も見られます。ただし、この場合には接近戦につながりやすいため、攻撃を受けた側はいったん足軽部隊を退却させ、騎馬部隊をかわすのが常道でした。
そして、もう一つの目的は、本格的な合戦に向けて士気を高めるとともに、場合によっては敵方の戦意をくじくというねらいも込められていました。緒戦で軽めのジャブを繰り出すことにより、闘志を高め、相手を威圧しようというわけです。
こういった戦い方からは、現代戦における威力偵察(軽微な実戦による情報収集)や制圧射撃(威嚇を目的とした火器の使用)にも通じる先進的な戦術を読み取ることができます。

冷静に分析された、鉄砲の弱点と弓矢の優位性
弓よりも射程距離が長く、破壊力も大きい鉄砲の普及は、合戦のあり方を大きく変えました。その典型は、城郭建築です。
鉄砲は板壁を貫通することができ、城壁の改良を必要としたため、城郭建築に革命をもたらしました。戦国末期に出てきた「典型的な」日本の城郭はまさしく鉄砲の導入に対応するものでした。また、射程距離が伸びたことで城郭の規模も巨大化し、立地に関しても物資の補給に有利な水運が重視されるようになりました。
一方、武士の甲冑はより防御性のある当世具足へと変わり、防御のための構築物も、籠城戦では重い土囊を積み上げて胸壁とし、野戦の場合には以前から使われていた木製の楯や竹束の重要性がさらに増しました。
ただし、鉄砲の実戦配備が進んだ当時も、その弱点を冷静に分析して、弓矢の優位性を指摘する声もありました。一六世紀の成立とされる「武具要説」という軍学書には、次のような記述があります。
「鉄砲は、遠くを攻撃する際には効果的だ。とくに、籠城戦では威力を発揮する。ただし、雨の日には使えない」
小幡山城守は、そう言った。
すると、横田備中守も賛同して言った。
「たしかに、山城守の言うとおりだ。遠距離攻撃に鉄砲は無類の強さを発揮する。しかし、接近戦で鉄砲を用いるのは危険である。点火しないこともあるからだ。しかも、いったん発砲すれば、再び火薬と弾丸を装塡するまでに時間がかかる。一騎討ちで鉄砲を使うのは褒められたものではないが、それ以外の状況であれば役に立つであろう」
彼らが指摘するように、たしかに当時の火縄銃は構造が原始的で、使用できる場面は限定的でした。また、弓のようにすばやく連射ができないという弱点も抱えていたものの、弓を上回る射程距離と破壊力については、広く認められていたようです。
2、槍による戦闘(槍合わせ)
合戦の第二段階は、槍部隊による攻撃です。槍部隊の攻撃は「槍を入れる」と表現されることが多く、槍部隊同士の戦闘を「槍合わせ」と呼びます。
関ヶ原の戦いの軍記には、武器の刃先から「火花が散る」といった表現で激しい戦闘の様子が語られていましたが、実際のところ、槍部隊が投入されて接近戦が始まると、戦場は一気に混乱し、敵と味方の将兵が入り乱れていきます。当時は、槍合わせから本格的な合戦が始まると考えられていました。一七世紀半ばに成立した『雑兵物語』という兵法書には「武士の槍から本当の戦いが始まる」という趣旨の記述があります。
こうした認識は、足軽の存在感が急速に高まった戦国時代においても、攻撃力の中核が武士にゆだねられており、足軽はあくまで武士の補完的な戦力と位置づけられていたことを示しています。したがって、足軽の首は手柄として評価されませんでした。武士たちは足軽との戦いを嫌い、戦場では身分の高い武士を探しました。

