子を蝕む「金満病」
富裕層が経験する倦怠感や意欲の低下、浪費といった問題を、消費評論家は「裕福」という意味の「アフルエンス(affluence)」と「インフルエンザ(influenza)」を合わせた「アフルエンザ(金満病)」と呼んでいるそうです。
日本のテレビ番組でも紹介されましたが、2015年、米テキサス州の十八歳の少年が飲酒運転によって4人の命を奪う大事故を起こして、逮捕されました。
彼の血中からは法定上限値の3倍ものアルコールが検出され、検察は、禁錮20年を求刑しました。
ところが弁護側の心理学者が、少年は裕福な親に育てられた「アフルエンザ」を患っており、責任を問えないと主張しました。少年は、悪いことをしても親がお金で解決してくれるので、善悪の判断ができなくなったというのです。
弁護側の主張は認められ、少年は10年の保護観察処分が言い渡されました。少年は、刑務所ではなくリハビリ施設に送られることになったのです。
この判決は明らかに富裕層に有利で軽すぎると、全米から批判の声が上がりました。経済力で司法を動かせる超格差社会のアメリカの歪みを表す判決とも言えるでしょう。
「アフルエンザ」は、一見、突拍子もない主張に思えますが、私は一理あると考えます。お金で人を支配することを幼い頃から覚え、感覚が麻痺している子どもたちは日本にも存在します。
子どもは生まれてくる環境を選べませんから、その責任は子どもではなく、親にあることは間違いありません。貧困層でも富裕層でも、善悪の判断がつかなくなるような環境に子どもを置くことは、広い意味での「虐待」なのです。
貧困家庭で育った子どもたちは、経済的支援や教育の機会を与えられることによって、社会との繫がりを構築するケースが多いと感じます。一方で、先にも述べたように、与えられすぎている子どもたちは支援に感謝することができず、信頼関係の構築が難しいのです。
いずれにしても、歪んだ価値観は、できるだけ若いうちに修正されなければなりません。世間から同情を得にくい富裕層の子どもへの支援は、福祉の網の目からもこぼれ落ちています。一見、ただの我儘に思えるかもしれませんが、これは大人の責任なのです。
子に責任を問えないのなら、親を罰すべきだと考える人もいるでしょう。
私たちは、加害行為に対して制裁を科すことで問題の解決を図りがちですが、罰によって人が変わることはありません。
こうした場合、親もまた歪んだ環境で育ってきたことが少なくありません。したがって、親たちにも自らの問題に気づく機会が与えられることが必要なのです。

裕福な家庭の子どもは幸せか
近年、「親ガチャ」という言葉が流行っています。親によって子の将来が左右されてしまうという意味です。
確かに、人が成長するうえで家庭環境がいかに重要かは、加害者家族と接していて痛感しています。
しかし、親にお金があれば幸せかといえば、必ずしも経済状況だけで幸福が保証されるとは思いません。
DVや虐待は富裕層家庭でも起きています。子どもの意思を無視して受験勉強を強いる教育虐待は、富裕層家庭で頻繁に起きています。
進学にあたって親の収入が少ない場合、奨学金制度が利用できますが、親に収入があれば利用できません。したがって、経済力のある親こそ自分の意思を押し付け、レールを敷いてしまい、子どもはそこから逃れられない状況が起こるのです。
親がエリートや著名人であることは、子どもにとって大きなプレッシャーになることも少なくありません。
子どもは親を選べないのですから、「お金持ちだから恵まれている」と一方的に羨んだり、そうした価値観を押し付けたりすることで、家庭に悩みを抱える子どもの心を閉ざしてしまわないよう、大人たちは注意しなければなりません。
地元の名士の子による犯罪というのも多数、受理した経験があります。田舎のお金持ちはとにかく目立つのです。前章の柏崎圭吾のケースがまさにそうですが、地元の人たちは皆、自分を知っていて、常に監視されているような緊張感の中での生活は、相当ストレスフルだと想像できます。
地域でいじめられたり、いじめられる恐怖からいじめっ子になったというケースもよく聞きます。いずれも、家庭環境という本人が選べない事情から生ずる問題です。
著名人や富裕層の子どもが事件を起こすと、必ずと言っていいほど「親が甘やかしたからだ」といった批判が上がります。
しかし、親が援助を与えすぎてしまう背景には社会不信があり、「お金があるなら自分でなんとかしろ」という世間からのプレッシャーが、問題を家庭に閉じこめているのです。

