人は、ある朝ふと目を覚ますと、自分の人生の湿度が変わっていることに気づく。コーヒーの湯気が、昨日よりゆっくりと立ちのぼる。隣にいる人の呼吸のリズムが、少しだけ違う。その変化を愛と呼ぶか、孤独と呼ぶかは、その日によって違うのかもしれない。映画『佐藤さんと佐藤さん』は、そんな「変化の音」を丁寧にすくいあげた作品だ。活発でまっすぐなサチ(岸井ゆきの)と、誠実で不器用なタモツ(宮沢氷魚)。大学で出会い、同棲を経て、やがて夫婦となったふたりは、時間の流れとともに、互いの中に別々の孤独を見つけていく。司法試験合格を目指していたタモツは落ち、支える側のサチが合格する。その瞬間、ふたりの重力がほんの少しずれていく――。
けれど、それは愛が壊れていく音ではなく、愛がかたちを変えていく静かな瞬間の記録のように感じられる。監督は『ミセス・ノイズィ』の天野千尋。脚本は熊谷まどかと天野の共作。ヒリヒリするほどリアルで、どこまでも優しいこの作品について、佐藤サチを演じた岸井ゆきのさんと、佐藤タモツを演じた宮沢氷魚さんに話を聞いた。
この静けさの中に、夫婦の真実がある
映画を観たあと、心の中にしばらく“沈黙”が残る。それは不快ではなく、むしろ、誰かと生きるということをもう一度ゆっくり考えさせる沈黙だ。
――最初にオファーを受けたとき、どう感じたのだろうか。
宮沢氷魚さんは静かに語る。「2人の日常を15年にわたって描いていくところに惹かれました。読みながらも観客のような気持ちで、2人のこれからの時間を想像してしまったんです」。そして岸井ゆきのさんも付け加える。「喧嘩も多い脚本で、最初は“そんなに言い合う?”と思いました。でも監督に“これはリアルなんだよ”と言われ、その言葉で作品の見え方が変わりました。今回のようなリアルなお芝居が生まれるっていうのはとても面白いなと思っています。人は、愛しているからこそぶつかるんだ、と」
この映画で描かれる「結婚」とは、日常のくり返しの中で「他者と生きる」という永遠の練習を続けることかもしれない。映画『佐藤さんと佐藤さん』は、そんなふたりの時間を15年の歳月で描く物語だ。
“喧嘩すること”のリアリティ
ほんの少しの間と抑揚が、何年分もの誤解を連れてくる。映画はそこで大声を上げない。呼吸の起伏で物語る。この映画の見どころのひとつは、ふたりの衝突のシーンだ。
夜の郵便局に向かうサチ、試験の願書をめぐる言い争い。宮沢さんが印象に残った場面として挙げる。「“なんで” “なんで”ってつづくセリフ。言葉に出していない“なんで”が心の中で溜まっていく。あの場面はタモツの弱さがあらわになっていて、自分を追い込む象徴的なシーンだと思いました」
岸井さんは相槌を打つようにうなずく。「“そんなこと言ってないじゃん”っていうセリフ、あれがサチの心そのものかもしれません。言葉が届かないって、あんなにも切ないんだって思いました」。そして岸井さんは続ける。「喧嘩のシーンは、痛みというより、ちゃんと生きている証のように感じます」
映画の中のふたりは、すれ違いながらも歩みを止めない。それはまるで、曇り空の下を進む影ふたつのように、静かで、確かに寄り添っている。

