起訴した事件の有罪率は99%以上、巨悪を暴く「正義の味方」というイメージのある検事。
取調室での静かな攻防、調書づくりに追われる日々――華やかなイメージとは裏腹の検事のリアルな日常と葛藤を、検事歴23年の著者が語り尽くす。『検事の本音』、その真意とは。本書より、一部を再編集してご紹介します。
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罪を犯した我が子と対峙する親の二者択一
我が子が罪を犯したとき、両親ら家族の反応は、次の二つのタイプに分かれる。
罪を犯した我が子を受け入れるタイプと、拒絶するタイプだ。
私の検事としての経験からは、親のタイプとしては前者の方が多い。殺人事件など重大事件であってもだ。
前者としては、次のような思いがある。
「人間は誰しも間違いを犯すことがある、罪を犯した子ども自身が一番、悪いことをしたと罪を悔いているだろうから、親としては責められない。責めると、子どもの居場所がなくなってしまうから」
「子どもに何があっても、帰ってくる場所は家族の許しかない。だから、親としては決して見捨てることはできない」
「もしかして、親である自分が子どものSOSに気づかず、あるいは子どもから悩みを打ち明けられても、その重さに気づかずにきちんと受け止めてやれなかったのかもしれない。ならば、自分たち親にも問題があるのではないか」
実は、このタイプの親が圧倒的に主流派なのである。
このこと自体は、皮肉ではなく被害者にとっても「幸いなこと」であるともいえる。なぜなら、このような子思いの親であれば、加害者である我が子が未成年、成人にかかわらず、被害者に対して生じる損害賠償金を最悪、親が代わりに負担する可能性が高いからである。
私自身、実際そういうケースを何度か担当したことがある。
本来は、加害者が成人ならば、民事的には親には被害者に対する損害賠償責任はない。損害賠償金にしても、親が我が子に代わって被害者に多額の支払いをする法的義務はない。
しかし、善良な親は罪を犯した我が子の窮状を放ってはおけないのだ。

受容型の親が抱える“限界”とすれ違い
このような親の姿を見るにつけ、良きにつけ悪しきにつけ、日本は家族の絆や責任を何より大切にする国柄であることが分かる。
ところが、肝心の子どもはというと、必ずしも親の心情を深く理解しているとは限らない。
親の過干渉は、うっとうしい、耐えられない。
これでまた、俺の人生を親が縛るのか。
俺の気持ちなど全く考えてなくて、自分たちの都合で自分たちの気持ちを一方的に押しつけているのが分からないのか、などと反発する。
それでも親は、子どもの再出発を信じたいのだ。
とはいえ、事態はそう単純ではなく、そういう親に限って、子どもが再び罪を犯したとき、意外にも子どもと縁を切るケースが多い。
親や世間との約束を、子どもが自分で反故にしたからだ。
立ち直るチャンスを与えたのに、それを活かせなかったのだから、子どもであってもあとは自力で生きていくのが当たり前と思うからだろう。
親として精一杯子どもの再犯防止のためにやってきたのに、親の心子知らずだと。
子も中途半端なら親も中途半端、それが今の日本の家族の現状といえる。
検事は、そんな親子の赤裸々な葛藤を日々、法廷で目の当たりにすることになる。
それが裁判ともなると、端には被告人の親が肩身の狭い思いをして座っている。
親といっても、大半は母親だ。
父親は仕事優先、会社優先で、家庭のことは職場に秘密にしておきたいから来ないのだろうと推察される。
裁判の間、母親は大抵、終始、うなだれて傍聴している。
こちらから見ると、まるで親自身が裁かれているような感じすらある。
その姿は、被告人となった我が子を受け入れるタイプであれ、拒絶するタイプであれ、ほとんど変わらない。
法廷で、母親は、弁護人の情状証人として被告人の今後の指導・監督を誓約する証言をする。
それに対して、検事の私は、被告人となった子どもに、「先程、お母さんがあなたのためにわざわざ法廷に来て証言しましたね。これを聞いてどのように思いましたか」と質問する。
被告人は、大抵、そのときは涙を流すなど感極まった表情で、「親には申し訳ないです。二度と家族を悲しませることはしません」と殊勝に言う。私も素直にその言葉を受け入れて、今の気持ちを忘れないでほしい、と心底願うものだ。


