沈黙の行進──「誰も見ない」というまなざし
ここからが、ジョン・コリア《ゴダイヴァ夫人》が切り取った「一瞬」です。絵のなかで、ゴダイヴァは白い馬にまたがって進んでいます。
当時の貴婦人の乗り方である横乗りではなく、男性のように脚を左右に分けて座る姿は、彼女の行為が“礼儀”ではなく“決断”であることを強く示しているようです。
同じ19世紀のジュール・ルフェーヴル《レディ・ゴディバ》では、彼女は白馬に横座りになり、両腕で胸を抱きかかえるようにしながら、首をのけぞらせて上空を仰いでいます。祈りとも恍惚ともつかない表情で、手綱は前を歩く女に預けられている。どこか「導かれる殉教者」のような姿です。
それに対して、コリアのゴダイヴァはひとりで手綱を握り、男性のように跨って自ら進んでいく。座り方と体勢の違いそのものが、「運ばれる存在」から「自ら選んで進む存在」へのイメージの差を物語っていると言えるでしょう。
ジュール・ルフェーヴル《レディ・ゴディバ》1890年、ピカルディー美術館, Musée de Picardie, Lady Godiva par Jules Lefebvre (1890) 3.jpg, Public domain, via Wikimedia Commons.
馬の体は深い赤の布で覆われ、金糸の刺繍が、彼女の白い肌と強い対比をなしています。
左手には小さな結婚指輪。同じ手で、彼女は馬の手綱を握っています。貞淑な妻でありながら、自らの意志で一歩を踏み出した女性としての象徴。そんな読み取りもできる細部です。
背景には、石造りの家々と、彼女と夫が建立に関わったとされるベネディクト会修道院の門とされる建物がひっそりと描き込まれています。しかし窓は閉ざされ、人影は一切ありません。
伝説では、ただ一人、好奇心に負けて覗き見た男「ピーピング・トム」が登場しますが、コリアの絵にはトムは描かれていません。覗く者は、画面の中ではなく、絵の前に立つ私たち自身なのかもしれません。
コリアが描いたのは、「恥」ではなく「誇り」
ここで少し、絵そのものを見つめてみましょう。
まず目を引くのは、光の扱いです。柔らかな光がゴダイヴァの肌にだけ集まり、周囲の建物はくすんだ色調でまとめられています。赤い馬具と白い肌、その周りを包む灰色がかった街並み。色のコントラストによって、彼女の存在は“聖域”のように浮かび上がっています。
彼女の顔はうつむき、頬にはわずかな紅が差している。恥じらいもある。けれど、それは屈辱ではなく、「それでも私は行く」という決意と背中合わせの恥じらいです。
髪や馬の毛並み、布の質感まで執拗に描き込まれた画面は、前ラファエル派風の細密なスタイルを思わせます。
ここには、安易なセンセーショナルさはありません。コリアが描いているのは、「裸そのもの」ではなく「裸にならざるをえなかった理由」だと言ってよいでしょう。
