ハリウッドにて制作が決定している『SHOGUN 将軍』シーズン2。新キャストとして、Snow Man・目黒蓮さん、水川あさみさん、窪田正孝さんらの参加が決定し、大いに盛り上がっています。
シーズン1にひきつづき、本作でも時代考証家としてドラマ制作に携わることとなった、フレデリック・クレインスさんの著書、『戦国武家の死生観』より、一部を再編集してご紹介します。
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主君をあっさり見限る戦国時代の武士たち
ここまで、思想と信仰という精神的な領域に着目しながら、戦国時代の武士たちの実像を紹介してきました。これまで一般的に理解されてきた江戸時代的な武士像とは異なる姿が浮かび上がってきたのではないでしょうか。
本章では、その輪郭をいっそう際立たせるため、戦国時代の人々の数々のエピソードを通じて、当時のリアルな主従関係と忠義のあり方を解説します。
すでに述べたように、社会そのものが流動的であった戦国時代には、武家の主従関係も不安定なものでした。端的にいえば、江戸時代のような「終身雇用制度」は存在しなかったのです。
当時の武士たちは、仕える甲斐がないと判断すれば、あっさりと見限って新たな主君を求めました。たとえ主君の命令でも、納得ができなければ聞き入れることはなく、みずからの信念に忠実であろうとしました。そして、自分のほうがすぐれていると思えば、隙を見て、主君の寝首を搔くこともためらいませんでした。

まずは、戦国時代の主従関係を象徴するような事件を紹介しましょう。
これは天文一九(一五五〇)年二月に発生した豊後の大友家におけるお家騒動で、俗に「二階崩れの変」と呼ばれています。主に典拠としたのは、江戸初期に成立した「大友記」という歴史書です。
主君一家を斬り殺した家老たちの忠義
大友義鑑は、源頼朝から豊後守護に任ぜられた大友家初代の能直から数えて二〇代目の当主であった。
義鑑には三人の男子がいたが、長男の義鎮(のちの宗麟)ではなく、後妻に入った御簾中(正妻)の子である末子の塩市丸を可愛がっており、いずれは家督を譲ろうと考えていた。日ごろから、義鑑が長男の義鎮と顔を合わせる機会はほとんどなく、御簾中も義鎮を嫌っていた。高貴な家庭から身分の卑しい家庭まで、世間を見渡しても、これほど継母と継子の仲が険悪な例はほかになかったであろう。
塩市丸を大友家の跡継ぎに据えることを強く願っていた御簾中は、日夜、義鎮をいかに失脚させるかということに頭を悩ませており、家老の入田親誠を頼りにしていた。そうした期待を理解していた親誠も御簾中の願いをかなえるべく奉公に励んだため、彼は義鑑の信頼も得て、やがて大友家の舵取りを任されるようになった。
あるとき、義鑑は親誠を呼び出し、こう尋ねた。
「義鎮については、私にも何かと考えるところがある。いっそ塩市丸に家督を譲ろうと思うのだが、そなたはどう思う」
すると、親誠は居住まいを正して、こう答えた。
「まことに恐れ多いことながら、ご兄弟のなかでも塩市丸様は並外れてすぐれた素質をおもちかと存じます。家中の者どもも、みな塩市丸様は親世公の生まれ変わりに違いないと褒め称えております」
この言葉に、義鑑はたいそう喜んだという。親世とは、南北朝時代に活躍し、室町幕府から高い評価を受けた大友家一〇代目の当主である。
それからしばらく経ったころ、義鑑は義鎮を招き、
「たまには湯治にでも出かけてみてはどうか」
と、当面、別府に滞在することを勧めた。義鎮は、普段は面会すら求めない父の言葉を怪訝に感じたが、おとなしく勧めに従い、別府へ出かけた。その様子を見届けた義鑑は、主だった家老たちを呼び出した。集められたのは、斎藤播磨守、小佐井大和守、津久見美作守、田口玄蕃允の四名である。
家老たちが神妙に控えていると、姿をあらわした義鑑は、かねて考えていた塩市丸を跡継ぎとする意向を明かした。一様に驚いた四名は、口々に再考を願い出た。
「ご長男を差し置いてのご相続は、家中の理解を得られますまい。騒動のもととなりますので、どうかお考え直しください」
家老たちは、懸命な思いで言上した。しかし、彼らの言葉を苦々しい思いで聞いていた義鑑は、ひと言も発することなく席を立った。
その日の暮に、義鑑は再び四名を召し出した。不審に感じた津久見美作守と田口玄蕃允は病を理由に応じなかったが、呼び出しに応じて大友館へ出向いた斎藤播磨守と小佐井大和守は義鑑の近習の者に襲われ、大門のそばで誅殺された。
その一報が届くと、身の危険を感じた津久見美作守と田口玄蕃允は腹を決め、素早く行動に移した。
大友館に駆けつけた両名は裏門から入り、二階の間に顔を出した。
「しばらく塩市丸様にはお目にかかっていないが、ずいぶん成長なさったであろう。少しの間でよいので、お目通りをたまわりたい」
そう言いながら奥の高間に足を踏み入れた津久見美作守は、そこに塩市丸の姿を見つけると、一刀のもとに斬り殺した。続いて、そばにいた御簾中を殺害し、御簾中に仕える者たちもすべて斬り殺してしまった。
さらに、田口玄蕃允は二階の間を過ぎて居間へ向かい、上段にいた義鑑に斬りかかった。そして、近習たちも斬り伏せたが、間もなく変事を察した側近たちが駆けつけ、両名は斬り殺された。
義鑑は即死こそまぬがれたものの、そのときの深手がもとで、数日以内に亡くなった。まことに悲しい出来事であった。


