「主君が無能なら見限れ」戦国武士のドライすぎる忠義観―【“SHOGUN 将軍”の時代考証家が語る】驚きの主従関係のリアル|フレデリック・クレインス

「主君が無能なら見限れ」戦国武士のドライすぎる忠義観―【“SHOGUN 将軍”の時代考証家が語る】驚きの主従関係のリアル|フレデリック・クレインス

家臣の忠節に感謝する武将たちの真意

少年と女性を含む多くの家中の者が犠牲となった二階崩れの変は、たいへん凄惨な事件ですが、家督相続をめぐる同様の内紛は、当時、各地の大名家で頻発していました。戦国時代の武家社会では、必ずしも主君の意思決定に絶対的な効力が認められていたわけではなかったことが、その理由の一つです。

江戸時代に成立した儒教的な君臣関係とは異なり、戦国時代の主君と家臣はより感情的な要素で結びついていました。やや踏み込んだ言い方をすれば、それぞれに立場は異なるものの、互いが相手の人格を認め、尊重しあうことで主従関係が成り立っていたのです。それは一種の個人主義と考えてよいでしょう。

したがって、たとえ主君が定めた方針であっても、賛同できなければ諫言をためらわない武士も少なくありませんでした。また、ときには実力に訴えて不同意を表明する場面さえあったのです。二階崩れの変が伝えるように、戦国時代の忠義とは主君に対する盲従を意味するものではありませんでした。

実際、戦国武将たちの書状には、家臣の忠節に対して主君が感謝の気持ちを伝えたり、さらなる忠節を求めたりする表現がよくみられます。こうした家臣への気遣いを示す表現は不安定な君臣の間柄の再確認を求めているようでもあり、当時の主従関係がはらんでいた緊張感をよくあらわしています。忠義とは、当然の責務ではなかったのです。

たとえば、因幡の山名豊国に宛てた天正六(一五七八)年正月一九日付の織田信長の朱印状では、豊国から黄金が届いたことを喜んでいると伝えたうえで、今後、織田軍が山陰に出兵する際には忠節を尽くすように求めています(早稲田大学図書館蔵)。

また、同じく信長が亀井茲矩に宛てた天正九年九月七日付の朱印状では、羽柴秀吉の与力として毛利家との戦いに参加している茲矩の活躍を「抽忠節之段(忠節を抽んずるの段)」として褒め称えています(国立歴史民俗博物館蔵)。

一方、秀吉が村上水軍の村上武吉に宛てた天正一〇(一五八二)年四月一九日付の書状では、瀬戸内海の制海権をにぎっていた武吉に対して「分別をもって忠義を尽くすことが肝要である」と書き送っています(山口県文書館蔵)。備中で毛利方の諸城を攻略していた秀吉が、抜かりなく調略に努めていた様子がうかがえます。

興味深いところでは、永禄年間(一五五八年から七〇年)以前のものと思われる七月二三日付の細川晴元の松浦肥前守宛書状に「忠節の輩を聞いていない」として、戦功を立てた者の名前を報告するように求めた記述があります。宛名の「松浦肥前守」という人物はおそらく和泉国の武将であると思われます。書状が出された背景などはよくわかっていませんが、家臣の忠節を見落すまいとする晴元の姿からは、望ましい主従関係を維持するうえで、主君側にも注意深い気配りが求められていた様子が察せられます(松浦史料博物館蔵)。

※本文の書状とは関係のない、イメージ画像です

配信元: 幻冬舎plus

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