家庭内監獄
私が使っていたスペースは、姉とその息子の龍(3歳)に奪われました。数週間後には夫も引っ越してくるとなると、私は屋根裏部屋に移動しなければなりません。
この部屋は基本的に荷物置き場で、幼い頃悪いことをすると「反省するまでここにいなさい」と言われて閉じこめられた監獄のようなところです。
屋根裏に押しやられた私は、高橋家の家族である権利を剝奪されてしまったような気分でした。こんな屈辱的な思いをしたのは生まれて初めてだったかもしれません。
龍は腕白な男の子で、よくイタズラをしました。綺麗に張られていた障子はビリビリに破るし、大切な置物はひっくり返して壊す、スナック菓子の食べカスを家中にこぼしてトイレまで汚す始末……。全く躾のなっていない子どもです。
龍を見ていると、とても子どもを持つ気になどなりません。
腹が立つのは、忙しい朝、私のハンカチやタオルを龍が持って行っていることに気が付いた時です。
「お姉ちゃん、また私の洗濯物、龍に盗られた。もういい加減にしてよ」
「前の日に準備してないあんたが悪いんでしょ? 洗濯くらい自分でしなさいよ」
「私は研究があるの! 暇な主婦とは違うんだから!」
「何よ、ただの学生のくせに」
「ちょっと朝から止めなさい」
子どもの頃は喧嘩なんかしなかったのに、毎日のように姉と口論になり、母親が止めに入る始末です。

姉は東大卒の夫と結婚し、周囲のママ友も高学歴の女性が多いことから、学歴コンプレックスを抱くようになっていました。私が有名国立大学の大学院に通っていることにも、姉は密かに嫉妬しているようでした。
両親は、3人姉妹で頭がいいのは三女(私)、容姿がいいのは次女、性格がいいのは長女とよく言っていました。確かに、幼い頃の菊乃は穏やかで、私を可愛がってくれる優しい姉でした。それが今では人相まで変わってしまいました。実家を出てからの苦労が性格を変えてしまったのでしょう。
姉は結婚したばかりの頃は、しばらく夫とふたりで過ごすと話していたのですが、子どもが欲しいと思った時にはなかなかできず、不妊治療を経ての妊娠でした。不妊治療は姉にとって過酷な経験だったようです。
それでもこの家は私の唯一の居場所。そうそう簡単に姉に渡すわけにはいきません。姉はもうひとり子どもを作る予定のようだし、今でさえ騒がしい龍がどんどん成長していくと思うだけでゾッとします。もうひとり子どもが生まれたとしたら、私の居場所は完全に失われるでしょう。
いつまでも屋根裏に押しこめられているなんて、まっぴらです。私は、長姉家族を追い出す計画を立て始めました。
姉妹は他人の始まり?
「光一さん、久しぶり!」
数週間後、姉の夫が自宅に越してきました。光一は、私が大学院を受験する時、家庭教師として勉強を見てくれていました。
「葵ちゃん、龍が迷惑かけてるみたいでごめんね。今、論文追い込みなんだよね」
「そうなの。そう言ってくれるのは光一さんだけよ。わかってもらえて嬉しい!」
私は姉の前で、わざと光一の腕に絡みついてみせました。
「ちょっと葵、光一さん疲れてるんだから、荷物運ぶの手伝いなさいよ」
尖った物言いから、姉の嫉妬を感じました。
私はどっさりと段ボール箱に入れられた書物を、2階の光一の部屋まで運ぶことにしました。
そこは、姉が来るまで私が使っていた部屋でした。
「葵ちゃん、ごめんね……。僕たちのせいで狭い部屋に移ったんでしょ?」
光一はすぐに私の苦境を察してくれたのです。
「良かったら、ここに本置いていいよ」
「ありがとう。部屋が狭いので凄く助かります」
光一の配慮に、姉はすぐに反論しました。
「ちょっと葵、図々しいわね。ここは光一さんのプライベートな空間なんだから」
それでも光一は、
「葵ちゃんも一緒に使おうよ。お互い研究者なんだし」
姉は嫉妬心も剝き出しに、
「光一さん、何言ってるのよ。研究者だなんて、ただの腰掛院生でしょ」
実態は、姉の言う通りです。それでも光一の言葉には、同志という意味がこめられている気がして嬉しくなりました。私は姉よりずっと近い距離にいるのだと。
「ところで、論文の進み具合はどう?」
光一は棚に本をしまい込みながら、私の研究の話を始めました。
「それがね、煮詰まっちゃって……。光一さん、スランプの時はどうしてるの?」
「映画を見に行ったり、散歩したり、思い切って机から離れるのもいいかもよ」
「確かに、そうかも」
「これからは毎日一緒なんだから、いつでも相談に乗るよ」
「本当に! 嬉しい。凄く心強い!」
私は再び光一に甘えるように抱きつきました。
「葵も早く結婚しなさいよ。早く嫁に行って、ここから出ていって欲しいわ」
しばし除け者にされていた姉は、ついに苛立ちを爆発させました。
「菊乃、そんなこと言うなよ。ごめんね葵ちゃん、僕たちが押しかけているのに……」
優しい光一は、そう言って私を慰めました。
「押しかけてるわけじゃないでしょ。私たちはここに住む権利があるの。わかってるのかしら?」
長女の傲慢さに、私は内心腹が立っていました。戻ってくるつもりがないと一度は両親の面倒を私に押し付けたくせに、都合が悪くなれば戻ってきて私を追い出そうとする。
出ていくべきは姉とその息子です。これからは毎日、姉の知らない話題で光一と盛り上がってやろう。姉がどこまで耐えられるか見ものです。私の中に沸々と復讐心が燃え滾るのを感じていました。
「ちょっと、また喧嘩なの?」
下にいた母が、心配して様子を見に来ました。
「光一さん、ごめんなさいね。本当にふたりとも、いい年してみっともないんだから」
「お母さん、大丈夫ですよ。喧嘩するほど仲が良いっていいますからね」
それは違います。姉妹は他人の始まりっていいますよね。他人だったら、憎しみ合わなくて済んだかもしれません。でも姉妹だからこそ、存在をかけてとことん潰し合うのです。
母と一緒に姉が階段を下りていったことを確認すると、私は書斎の扉を閉め、光一の胸に飛び込みました。
「光一さん、今日から〈家族〉だね」
私の行動に光一は戸惑い、彼の心臓が高鳴っているのを感じました。
「家では家族のふりするから、また〈ふたり〉になろうね」
私たちには、既に秘密があったのです。


