応挙は「足のない幽霊」を最初に描いた?
円山応挙『幽霊図』, Public domain, via Wikimedia Commons.
応挙が描いたのは、可愛い動物だけではありません。現在では一般的な「足のない幽霊」のイメージを作ったのは、応挙だったことをご存じでしょうか。
実際には、17世紀末の浄瑠璃本の挿絵に足のない幽霊が描かれていたとされているものの、現在の私たちのイメージする幽霊像を確立したのは、応挙の作品だと言われています。
幽玄な女性の姿が描かれた「幽霊図」では、女性の腰から下の部分が描かれていません。
薄く透けている髪や、うっすらと引かれた紅の表現が、この幽霊の儚さを表現しています。
幽霊を描いているだけあって、どこか不気味なこの作品。しかし、同時に、思わず引き込まれてしまいそうな魅力も放っています。
円山応挙の生涯とは?一代で名を馳せた「応挙派」の祖
玩具店での仕事から絵の道へ
円山応挙肖像『近世名家肖像』より, Public domain, via Wikimedia Commons.
円山応挙は、1733年に丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)に生まれました。
農家の次男として生まれたものの、幼い頃から絵を描くのが大好きだった応挙は、家業にはあまり熱心ではありませんでした。そこで両親は、8歳の応挙を金剛寺に修行に出したといいます。
しかし、そこでも応挙は不首尾に終わり、10代前半から半ば頃、京都・四条新町の呉服屋で奉公人として働き始めました。
その後ガラス製品の「びいどろ道具」や人形など、おもちゃを扱っていた店で働くこととなった応挙は、人形の彩色などを手掛けました。後年、応挙も描いた「眼鏡絵」は、この玩具店の目玉商品のひとつだったと言われています。
この仕事の経験がきっかけで、応挙は絵師の道を志すことになりました。
中国画家の影響と有力後援者との出会い
円山応挙『孔雀図』, Public domain, via Wikimedia Commons.
応挙が画業を始めてから、比較的初期に大きな影響を受けたのが、沈南蘋(しんなんびん)だと言われています。
沈南蘋は中国・清時代の画家で、1731年に長崎に来航し、2年後に帰国しました。写生的で濃厚な花鳥画が特徴的で、南蘋の滞在中に直接教えを受けた日本人画家たちを通じて全国的に広まった画風でした。
特に江戸時代中期の画家たちに大きな影響を与えており、応挙も南蘋の影響を強く受けたひとりでした。
応挙が写生画のスタイルを確立させた1765年頃、有力な後援者との出会いを果たします。
その人物とは、滋賀の円満院の祐常(ゆうじょう)法親王でした。
早くから才能を見抜いてくれた祐常法親王との出会いは、応挙にとって重要な転機となりました。この支援により、応挙は創作活動に専念することができるようになったのです。
豪商・三井家との親交と絆
円山応挙『郭子儀祝賀図(かくしぎしゅくがず)』, Public domain, via Wikimedia Commons.
やがて祐常法親王が亡くなると、今度は三井越後屋の人々が応挙の有力な後援者となりました。
『郭子儀祝賀図(かくしぎしゅくがず)』は、三井家の家業をまとめた三井高彌への隠居祝いとして制作されました。時代の名将で子孫繁栄・長寿を全うした郭子儀にあやかり、その姿を高彌に重ねて描いた作品です。
三井家と応挙との親交が始まった時期は定かではないものの、少なくとも1772年頃には交流があったことがわかっています。また、11家あった三井家の中でも、北三井家の4代目である高美(たかはる)とは、特に友好的な関係を築いていました。
「応挙派」の祖として多くの門弟を抱える
円山応挙『雪松図屏風』(部分), Public domain, via Wikimedia Commons.
1780年代に入ると、応挙は多くの門弟を抱え、工房を形成するほどになりました。
一代で画壇に名を馳せた応挙は、「応挙派」という新たな流派の祖として活躍したのです。
この頃になると、屏風や障壁画などの大型作品を制作することが多く、画家個人が成し遂げるのが難しい仕事が増えてきました。そこで応挙は、門人たちのそれぞれの能力を考慮しつつ、仕事を割り当てていたといいます。
応挙は精力的に大仕事を成し遂げ、その画風を多くの門弟に伝承してきましたが、1793年頃からは、眼病やさまざまな病に悩まされるようになりました。
そして1795年、63歳でこの世を去りました。
