ハリウッドにて制作が決定している『SHOGUN 将軍』シーズン2。新キャストとして、Snow Man・目黒蓮さん、水川あさみさん、窪田正孝さんらの参加が決定し、大いに盛り上がっています。
シーズン1にひきつづき、本作でも時代考証家としてドラマ制作に携わることとなった、フレデリック・クレインスさんの著書、『戦国武家の死生観』より、一部を再編集してご紹介します。
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戦国武将たちの信仰のかたち
前章で紹介したように、江戸時代の武士像は元和偃武以降の平和な社会を背景として形成された思想的な産物であり、戦国時代の実態とはかけ離れたものといえます。しかし、現代から戦国時代を振り返るとき、その間に横たわっている江戸時代の残像を重ねてしまうことが少なくありません。
戦国武将たちの実像を正しく理解するには、いったん初期化を実行して、儒教を基盤とする江戸時代バイアスを消去する必要があります。
そのうえで再インストールを求められるのが、戦国武将たちの信仰心についての正しい理解です。
これまで、儒教的な武士像の延長線上に描かれてきた戦国武将の姿には合理主義者としての色合いが強く、信仰心が政治的な行動や判断におよぼした影響については見過ごされがちでした。むしろ近年は、武将たちが勢力拡大のために宗教を利用していたとする解釈も見られます。
しかし、その当時の人々にとって、神仏は「利用」できるものだったのでしょうか。じつは、そうした見方そのものが、宗教に対して一定の距離感を保つようになった現代的な発想ではないかと私は考えます。戦国武将にとって、信仰とは日常の一部であり、特別な行為ではありませんでした。
たとえば、無神論者であったといわれる織田信長ですら、永禄三(一五六〇)年の桶狭間の戦いの際には熱田神宮で戦勝を祈願してから出撃しています。豊臣秀吉は京都に日本最大の大仏を造立し、徳川家康は「厭離穢土 欣求浄土」という浄土宗の言葉を自身の旗印に採用していました。武将たちの多くは寺社の有力な庇護者であり、合戦の際には護符や小さな仏像を身につけて戦場に臨むのがつねだったのです。
現代を生きる私たちが空気の存在を疑わないように、彼らは神仏の存在を疑わなかったはずです。戦国時代の世界観において、神仏は日常にあまねく存在しており、合戦の勝敗はもちろん、政治や文化、私生活においても、彼らはあらゆる場面に神仏の意思を感じ、その導きを求めていたと考えられます。
こうした考え方は、信仰と合理的な判断を使い分ける現代人の感覚とは本質的に異なっています。日ごろから死と対峙し、世の無常を肌で感じていた武将たちにとって、信仰は道具ではなく、人生の前提であったと受け止めるべきでしょう。
さまざまな史料と虚心に向き合うと、武将たちの多くが篤い信仰心と律儀な宗教観をもっていた様子が浮かび上がってきます。代表的な人物の信仰にかかわる言動から、その具体的な様子をたどってみましょう。
上杉謙信は修行僧のように祈り続けた
戦国武将のなかでも、最も熱心な宗教実践者の一人であったのが越後の上杉謙信です。有名な僧形の肖像画からもわかるように、彼は武家の当主でありながら信仰心の篤い求道者でもありました。
上杉謙信公之像
享禄三(一五三〇)年、越後守護代長尾為景の庶子として生まれた謙信は、天文五(一五三六)年に七歳で春日山の林泉寺に入り、住持の天室光育から指導を受けました。このころから謙信と仏教との深いかかわりが始まりました。
当時の越後では、有力な地侍たちの勢力争いが絶えず、長尾一族のなかでも混乱が続いていました。そうした事態を収拾する力強い当主が待ち望まれるなか、謙信は家中から武勇にすぐれた素質を見込まれ、やがて家督を相続しました。以来、その軍事的な才能とカリスマ性で家中をまとめ、越後の統一に成功し、その後は甲斐の武田信玄や関東の北条氏康との戦いを繰り返しました。
謙信の旗印として有名な「毘」が武神の毘沙門天にちなんでいたことは、よく知られています。終生、謙信は毘沙門天を篤く信仰していました。その求道的な修養者としての姿が軍事的な才能と重なり合い、いつしか彼を毘沙門天の生まれ変わりとする説が広まったと考えられます。
実際、謙信の宗教的実践は多岐にわたりました。彼は宗派にこだわることなく、さまざまな仏や神々を信仰し、日常的に祈りを捧げていました。元亀元(一五七〇)年一二月に認めた「看経の次第」には、阿弥陀如来、千手観音、摩利支天、日天などへの看経を詳細に記し、それぞれに真言の唱和や経典読誦の回数まで定めていました。
特筆すべきは、謙信が禅宗と真言宗の両方に深く親しんでいた点です。幼少期から林泉寺の天室光育や後の住持益翁宗謙といった禅僧たちと親交を深める一方で、永禄元(一五五八)年ごろからは高野山無量光院の清胤を師と仰ぎ、真言の奥義を学んでいました。晩年の天正二(一五七四)年一二月一九日には剃髪して法体(出家姿)となり、清胤を師として仏法灌頂の儀を行い、僧侶の最高の位である法印大和尚となりました。
謙信は春日山城内の大乗寺で日々看経に励み、戦に臨む際にも祈りを欠かしませんでした。同時に、領内の寺院(宝幢寺・至徳寺・林泉寺・転輪寺・広泰寺など)の僧侶たちにも戦勝祈願を命じ、特に頸城郡の「能化衆」と呼ばれる高位の僧侶六人には摩利支天法という護摩を執行させるなど、信仰を通じた戦勝への祈りを重視していました(謙信の宗教的実践について主に、山田邦明・著『上杉謙信』を参照)。
このように、上杉謙信の生涯には深い信仰心が通底しており、武将としての才能と宗教者としての側面が見事に融合していました。宗派の枠を超えて多様な仏神を信仰し、戦国の乱世にあっても純度の高い信仰実践を貫いた姿勢は、謙信の人格を形づくる重要な要素であったといえるでしょう。

