自分と生き写しの不動明王像をつくらせた武田信玄
謙信のライバルであった信玄も、熱心な宗教者でした。
武田信玄公の銅像
大永元(一五二一)年、甲斐守護武田信虎の嫡子として誕生した信玄は、天文一〇(一五四一)年、重臣たちとともに父を駿河へ追放し、家督を継ぎました。その後、信濃や北関東に勢力を拡大し、永禄二(一五五九)年に出家しています。
信玄は、武田家の菩提寺であった臨済宗妙心寺派の恵林寺を手厚く保護し、お抱えの祈願所として重視しました。そのことは、信玄が同寺に安置した不動明王像が強く示唆しています。
その不動明王像は俗に「武田不動尊」と呼ばれ、信玄がみずからを模して等身大でつくらせたと伝わります。
『甲陽軍鑑』品第八によると、信玄公は午の年の六月に、幅一間よりやや小さい鏡を鋳造させ、鏡に映る自身の姿を木像に写させました。
みずからの姿と見比べて本人と違わないようにつくらせ、さらに自分の髪の毛を焼いて、それで木像の髪を彩色しました。こうして完成した座像は不動明王の姿と少しも相違ないものでした。周囲の人々に見せると、信玄が法体になられてからは、不動尊の姿と少しも違わないと評判になりました。
この製作過程から、信玄は不動明王に己自身を重ねて、一体化をはかったことがうかがえます。こうした行為からは、信玄の強い信仰心を読み取ることができます。
また、信玄は武田家の氏神である諏訪大社を崇敬し、社殿の造営や社領の寄進を行っています。武田軍といえば、『孫子』軍争篇から受容されたいわゆる「風林火山」(其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山)の軍旗がよく知られていますが、信玄は軍の先頭に「南無諏方南宮法性上下大明神」という諏訪神号旗を掲げさせていました。そして自身の兜には、小さな諏訪明神像を飾りつけています。神仏の加護を得るため、彼が懸命に手を尽くしていた様子が浮かび上がってきます。
そうした信玄の信仰心に関して、興味深いことに、イエズス会士のルイス・フロイスが一五七三年四月三〇日付の書状のなかで、次のように言及しています。
「信玄は剃髪して坊主となり、つねに坊主の服と数珠を身につけていた。一日に三回、偶像を祀るために、戦場には六〇〇人の坊主を同伴させている」
六〇〇という数値については慎重に見きわめる必要があると思われますが、宗教者を戦場に帯同する事例は少なくありません。したがって、信玄が多数の僧侶を従軍させ、陣中でも熱心に戦勝を祈願していた可能性は高いと見てよいでしょう。信仰心においても、信玄と謙信は好敵手であったといえます。

