武士から戯作の世界へ。山東京伝に出会う
馬琴は20代後半で、当時の著名な絵師かつ戯作者の一人である山東京伝(さんとうきょうでん)に出会い、戯作の世界に足を踏み入れます。
そして、すぐに才能を開花させ、人気作を連発していた版元・蔦屋重三郎の企画にも参加しました。こうして、徐々に人気作家としての地位を確立していったのです。
読本という文学ジャンルの確立
四天王剿盗異録、1806年の曲亭馬琴作と歌川豊国画の読本、ボストン美術館蔵, Public domain, via Wikimedia Commons.
馬琴の功績は、それまで教訓的で物語性の薄かった読本というジャンルを、庶民が熱中する長編小説へと昇華させた点にあります。武士社会の道徳観を原点に、徹底した勧善懲悪の物語を書いた作風も特徴的です。
晩年は病に見舞われて失明しましたが、代筆を務めたのが息子の嫁であるお路(みち)でした。馬琴の息子はすでに亡くなっていましたが、お路の献身的な支えを受け、盲目でありながらも最後まで作品を書くことができたのです。
