「トータル・インスタレーション」という概念
1980年代から90年代にかけて、インスタレーションアートはさらに理論的な深化を遂げます。その中心的な人物がイリヤ・カバコフ(1933-2023年)です。彼は「トータル・インスタレーション」という概念を提唱し、鑑賞者が完全に作品に没入する環境を創り出しました。
テートの記録によれば、カバコフは1933年にウクライナのドニエプロペトロフスク(現ドニプロ)で生まれ、8歳の時にモスクワへ移住しました。ソビエト連邦では、アーティストは「社会主義リアリズム」という公式の様式に従うことが義務付けられていました。
独立性を保つため、カバコフは1955年から1987年まで児童書のイラストレーターとして生計を立てながら、自身の絵画や素描を制作し続けました。彼は「非公式アーティスト」として、モスクワのアトリエで密かに作品を制作し、信頼できる少数の芸術家や知識人にのみ見せていました。
1985年、カバコフはモスクワのスタジオで《The Man Who Flew into Space from His Apartment》を制作しました。テートの解説によれば、これは彼の最初の部屋全体を使った「トータル・インスタレーション」であり、オブジェ、照明、テキストを慎重に配置して、鑑賞者を作品の中に没入させるものでした。
この作品は、ソビエト時代の共同アパートを舞台にした架空の物語を提示します。共同アパートとは、都市部の住宅不足に対処するためにソビエト連邦で生まれた住居形態で、複数の世帯が同じ調理場や洗濯設備を共有し、しばしば窮屈な条件で生活することを強いられました。カバコフにとって、ソビエトの共同アパートは、個人が他者の視線にさらされる方法を象徴するものでした。
カバコフが提唱した「トータル・インスタレーション」の概念は、インスタレーションアートの理論的基盤を確立する上で重要でした。彼自身の言葉によれば、「トータル・インスタレーションの主役、すべてが向けられている中心、すべてが意図されている対象は、鑑賞者である」。
この概念は、画像、テキスト、オブジェ、音の相互作用によって創り出される特別な雰囲気の中に、鑑賞者を没入させることを目指しました。
現代アートシーンにおける重要性と未来
これまで見てきたように、インスタレーションアートは20世紀初頭の前衛的な実験から、1960年代から70年代にかけて明確な芸術形態として確立され、現在では現代美術の中心的な表現手段の一つとなっています。
インスタレーションアートが現代アートシーンで重要なのは、いくつかの理由があります。第一に、芸術作品と鑑賞者の関係を根本的に変えたことです。伝統的な絵画や彫刻では、鑑賞者は作品から一定の距離を保って観察しますが、インスタレーションでは鑑賞者が作品の中に入り込み、その体験そのものが作品の一部となります。
インスタレーションアートは芸術の商品化に抵抗する側面を持っています。インスタレーションアーティストは、ギャラリーや美術館の外へ作品を設置し、既製品、産業用品、日常品、大衆の技術といったより実用的な素材を使用することで、芸術を孤立した概念ではなくすることに関心を持っています。
大規模なインスタレーションは収集や販売が困難であり、多くの場合一時的なものです。このため、インスタレーションアートの運動は芸術の商品化に対抗し、芸術作品の価値を決定する伝統的なメカニズムに異議を唱えています。
また、インスタレーションアートは学際的な性質を持ち、建築、舞台芸術、音楽、映像、テクノロジーなど、様々な分野の要素を統合します。この柔軟性により、気候変動、社会正義、アイデンティティといった現代の複雑な問題に取り組むことが可能になっています。
エリアソンの《The Weather Project》が環境問題への意識を高めたように、インスタレーションアートは社会的な対話を生み出す力を持っています。
インスタレーションアートは美術館やギャラリーという制度的な枠組みそのものを問い直してきました。カプローがこれまでの美術館の慣習に反対したように、また具体が公園や舞台で展覧会を開催したように、多くのアーティストは作品を公共空間や非伝統的な場所に設置することで、誰がアートにアクセスできるのかという問いを投げかけてきました。
テクノロジーの発展も、インスタレーションアートの可能性を大きく広げています。VR技術の発達によって最近のインスタレーション作家は、鑑賞者を仮想現実に没入させる作品へと向かっています。まだまだ新しい技術はアート界で広く採用されていませんが、現代美術の未来における最も重要な方向性の一つとして出現する準備が整っていると多くの人が信じています。
さらに、インスタレーションアートは、パフォーマンスアート、ランドアート、公共芸術など、他の現代美術の形態にも大きな影響を与えてきました。多くの現代アーティストは、もはや単一の媒体に限定されず、状況に応じて最も適切な表現形態を選択します。
このハイブリッドなアプローチの基盤を作ったのが、インスタレーションアートの先駆者たちだったのです。
まとめ
インスタレーションアートは、20世紀初頭のデュシャンやシュヴィッタースの実験的作品に端を発し、1954年の具体美術協会による革新的な活動、1950年代から60年代のカプローによる「エンヴァイロメント」の確立を経て、現在では現代美術の主要な表現形態となりました。
この表現形態が持つ空間性、体験性、そして社会的な力は、美術館を訪れる人々だけでなく、アーティストたちにとっても、新しい可能性を開き続けています。
草間彌生の《Infinity Mirrored Room》が示す知覚の変容、エリアソンの作品が喚起する環境への意識、シカゴの《The Dinner Party》が提起した歴史の再解釈、そしてカバコフが理論化したトータル・インスタレーションの概念。
これらの作品は、インスタレーションアートが単なる視覚的な楽しみを超えて、私たちの世界認識や社会のあり方そのものに問いを投げかける力を持つことを証明しています。
今後も、インスタレーションアートは技術の進歩や社会の変化とともに進化を続けるでしょう。しかし、その根底にあるのは、芸術と生活の境界を曖昧にし、鑑賞者を受動的な観察者から能動的な参加者へと変えるという、この表現形態が最初から持っていた革命的な特性なのです。
参照
◆主要参考文献:
・Tate. "Installation art." Tate Art Terms. https://www.tate.org.uk/art/art-terms/i/installation-art
・TheArtStory. "Installation Art Movement Overview." https://www.theartstory.org/movement/installation-art/
・Tate. "Kurt Schwitters: Reconstructions of the Merzbau." Tate Papers, Issue 8. https://www.tate.org.uk/research/tate-papers/08/kurt-schwitters-reconstructions-of-the-merzbau
・MoMA. "In Search of Lost Art: Kurt Schwitters's Merzbau." Inside/Out blog, 2012. https://www.moma.org/explore/inside_out/2012/07/09/in-search-of-lost-art-kurt-schwitterss-merzbau/
・TheArtStory. "Allan Kaprow: Happenings, Bio, Ideas." https://www.theartstory.org/artist/kaprow-allan/
・Tate. "The Happening." Tate Art Terms. https://www.tate.org.uk/art/art-terms/h/happening/happening
・Hirshhorn Museum. "Infinity Mirror Rooms – Yayoi Kusama: Infinity Mirrors." https://hirshhorn.si.edu/kusama/infinity-rooms/
・Tate Modern. "Yayoi Kusama: Infinity Mirror Rooms." https://www.tate.org.uk/whats-on/tate-modern/yayoi-kusama-infinity-mirror-rooms
・Studio Olafur Eliasson. "The weather project." https://olafureliasson.net/archive/artwork/WEK101003/the-weather-project
・Tate. "The Unilever Series: Olafur Eliasson The Weather Project – Press Release." https://www.tate.org.uk/press/press-releases/unilever-series-olafur-eliasson-weather-project
・Brooklyn Museum. "The Dinner Party." https://www.brooklynmuseum.org/exhibitions/dinner_party
・History.com. "Judy Chicago unveils controversial feminist art installation 'The Dinner Party'." https://www.history.com/this-day-in-history/judy-chicago-the-dinner-party-debuts
