ほぼ毎話のレビューをしてきたドラマ・演劇批評家の木俣冬さんが、振り返ります。(以下、木俣さんの寄稿。ネタバレを含みます)。
井上ひさしとは直木賞作家でもある劇作家。『ムーミン』や『ひみつのアッコちゃん』の作詞でも有名。三谷演じる井上は劇団クベシアターの『ハムレット』を観て「ハムレットの真髄がある」みたいなことを語る。
ちょっと歯が出た口元と黒い丸い眼鏡の伏し目がちな表情。徹底して顔を作って、喋り方も再現した。おもしろい方向にぐっと拡大しているから当人(故人だが)が見たらいやかもしれないが、傍から見たら特徴を掴んでいて親しみを感じる。
史実の井上は74年にシェイクスピア全作を盛り込んで時代を天保時代に置き換えた『天保十二年のシェイクスピア』を書いている。いわば『もしがく』の先行作である。
ここで井上が久部(菅田将暉)と語らず蓬莱(神木隆之介)と語るのは、井上が若き頃、浅草のフランス座というストリップ小屋の座付き作家をやっていたこともあり、三谷を投影したとされる蓬莱の先輩的な存在だからであろうか。

自作を批判する人の「顔」を突き止める
三谷幸喜は観察力とか記憶力が抜群にいいのだろうと思う。それを生かして、好きな映画やドラマをすてきにアレンジして自作のなかに溶け込ませたりするのも得手なのだろう。最近のネットニュースでも取り上げられていた、三谷が菅田将暉と神木隆之介と出演した『僕らの時代』(フジテレビ)で、自作の批判をする人をエゴサして、「顔」を突き止めるという執念深さ(?)。批判する人の「顔」は?という探究心と、文豪や天才の顔マネはどこか通底している気がする。美醜ではなく面構えがいいとか悪いとか言うように、その人の考えや体験が顔に出る。三谷幸喜の他者の顔真似は深い洞察力に基づいている、ような気がする。
崩壊や転落を予言する、不吉な占いが…
1984年、風営法が改正され街が変わりはじめた時代の渋谷を舞台にした『もしがく』。当人は朝日新聞の連載コラムで『もしこのぶたがく』と書いていた。第7話では『もしこぶ がくどこ』と、おばば(菊地凛子)が冒頭でそう語っていたが、『もしこのぶたがく』が正解なのか。ややこしいのでとりあえず『もしがく』としておく。最終回。おばばの予言「一国一城の主となる」が当たり、WS劇場を手に入れた久部(菅田将暉)だったが、おばばは次第に久部の運気が下がってきていることに気づく。タロット占いでは塔という不吉な崩壊や転落を意味するカードが出た。
念願の『ハムレット』を自身の主演で上演している久部。観客は入っているが、それは大瀬(戸塚純貴)のアイドル的人気によるもので。のちに指摘される「芝居のできないオフィーリア(リカ)と人望のないハムレット(久部)」がメインで根本的に演劇としての価値がズレはじめていた。劇団員も惰性でやっているような雰囲気で、蓬莱(神木隆之介)や樹里(浜辺美波)は旗揚げの頃が良かったと思っている。
演劇に限ったことではなく、集団とはとかくこういうもの。最初はひとつの目標に向かって盛り上がるが、一度、ある程度結果が出ると次第に緊張感がなくなり、意見の不一致も生まれ、バラバラになっていく。(*以下最後までネタバレします)

