ハリウッドにて制作が決定している『SHOGUN 将軍』シーズン2。新キャストとして、Snow Man・目黒蓮さん、水川あさみさん、窪田正孝さんらの参加が決定し、大いに盛り上がっています。
シーズン1にひきつづき、本作でも時代考証家としてドラマ制作に携わることとなった、フレデリック・クレインスさんの著書、『戦国武家の死生観』より、一部を再編集してご紹介します。
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浅井長政の配慮が伝わる「最期の感状」
主従の関係が倫理規範によってほぼ固定化されていた江戸時代とは異なり、より人間的な関係性が重視されていた戦国時代の主君には、当然ながら、家臣の忠義をつなぎとめるだけの個人的な魅力が求められていました。
軍事的な才能だけでなく、指導者としての求心力が問われていたといえます。戦国の武士たちを心服させた武将とは、どのような人物であったのでしょうか。
たとえば、北近江の浅井長政は、その誠実な人柄が家臣たちから慕われたと伝わっています。実際、元亀四(一五七三)年八月二九日付で家臣の片桐直貞(のちに豊臣秀頼の家老を務めた且元の父)に宛てた感状には、そうした評価を裏づけるような痕跡が示されています(石川武美記念図書館蔵)。
この感状は織田軍の攻撃を受けて小谷城が落ち、長政が自刃する前日に記されたと見られ、研究者の間では「浅井長政の最期の感状」としてよく知られる史料です。
書状のなかで、長政はすでに本丸を残すのみとなった敗勢にもかかわらず、自分に付き従ってくれた直貞を「忠節抽んぜられ候」として称賛し、その比類のない勇敢な覚悟に対する感謝の気持ちは書き尽くすことができないと述べています。
注目すべきは、この感状が縦一〇センチ弱、横二三センチの当時としては小さな紙片に記されていることです。これは、織田軍に包囲された小谷城から脱出しなければならない直貞の苦難を慮り、懐中に隠しやすいようにと工夫された長政の心遣いであったと考えられています。
当時、主君から与えられた感状は、再び仕官する際に自身のキャリアを証明する役割も果たしていました。間もなく城が落ち、みずからも命を絶たなければならない絶望的な状況のなかで、長政は家臣が無事に生き延びることを願い、未来の再就職先への推薦状を与えたのです。こうした主君のためなら、命懸けの奉公もいとわないと考える武士は少なくなかったでしょう。
浅井長政家族像
別所長治はなぜ信長に反旗を翻したのか
浅井長政の事例と同様に、主君と家臣たちの強い絆を想い起こさせるのは播磨の別所長治の逸話です。
別所長治公像
別所家に仕えていた来野弥一右衛門が主家の事績を後世に伝えるために記したとされる「別所長治記」と、秀吉の御伽衆の一人であった大村由己による『天正記』のなかの「播州御征伐之事」に依拠して、物語風に紹介します。
初めて織田信長に拝謁したのは、天正三(一五七五)年、別所長治が一七歳になる年の秋のことであった。上段から浴びせられる強い視線を全身に感じながら、長治は父と同様、信長に忠節を尽くすことを誓った。
小さな勢力が割拠していた播磨において、三木城を本拠として東八郡に勢力を広げていた別所家は近隣で最も有力な大名であった。彼の父安治は、信長が足利義昭を奉じて上洛したころから織田家に従い、その武勇が信長に称賛された。だが、元亀元(一五七〇)年に亡くなったため、長治が二人の叔父の後見を得て、一二歳で家督を継いだ。
天正四年も京都に信長を訪ねて変わらぬ忠義を示した長治は、天正五年二月、信長が雑賀衆の征伐に出陣すると、叔父を名代として軍勢を紀伊へ差し向け、織田軍に加勢した。彼は、信長のもとで家運を切り拓こうとしていた。
ところが、同年、播磨の平定という使命を帯びて羽柴秀吉が赴任してくると、長治は信長に不審を感じた。秀吉の尊大な振る舞いを見ているうち、信長は別所家を利用しようとしているのではないかという疑念が生じたのである。とりわけ許しがたく思われたのは、秀吉が別所の家臣を下僕のようにあしらったことであった。
織田には従ったが、羽柴の家臣になった覚えはない──。
成り上がり者の高慢な言動には憤りを覚えたが、長治は感情を抑え、秀吉への協力を続けた。だが、天正六年、信長から中国地方を支配する毛利家の討伐を知らされ、その先鋒を務めるよう要請されたとき、彼は信長のもとで家運を切り拓こうとした自身の思惑がはずれたことを悟った。
信長は、中国地方の平定を終えれば、彼に播磨一国の支配権を与えると約束したうえ、さらなる恩賞も提示した。しかし、それが方便にすぎないことは、秀吉の思い上がった振る舞いが証明していた。すでに秀吉は播磨の国衆を家臣と同様に見ており、毛利家を討てば、用済みになった別所家も滅ぼされるのは明らかであった。長治は、重臣を集めて評議を重ね、織田家と手を切り、毛利家と結ぶことを決断した。
信長に反旗を翻した長治は、三木城を足場として秀吉に攻撃を仕掛けた。予想外の事態に秀吉は驚き、混乱したが、間もなく態勢を立て直すと、反撃に転じた。そして、野口と神吉の城を落とした。
三木城の支城を一つひとつ潰していった秀吉軍は、徐々に優勢を拡大した。対して、挽回をはかった長治は平山で合戦に挑み、弟の小八郎とともに奮戦した。
だが、兵力に勝る秀吉軍に大敗を喫して、多くの家臣を失ってしまった。残兵をまとめた長治は三木城に立て籠り、以後城門を固く閉ざして、毛利家からの援軍を待つことにした。

