軍馬も食べ尽くす極限の飢え、籠城戦の地獄
徹底抗戦の構えを見せた別所軍に対して、秀吉は容赦なく包囲を狭め、三木城は完全に封鎖されてしまった。毛利家との連絡を遮断されたものの、主君の決断を支持していた将兵の戦意は衰えなかった。しかし、米蔵の蓄えが尽きると、別所方は籠城戦の過酷さを思い知ることになった。彼らは、糠や藁、草を食べて飢えをしのいだ。やがて、家畜や軍馬も食べ尽くした。城内は地獄になった。
痩せ衰えた別所方は動くこともできず、夜が明けると多くの者が死んでいた。人の道にはずれた恐ろしい光景が各所に見られ、そのうちかろうじて体を動かすことができた三〇〇名の若者たちが最後の抵抗を試みたが、その多くは鎧の重みにさえ耐えきれず、秀吉軍の弓矢の的にされるだけだった。
籠城を始めてから二回目の元旦が過ぎた天正八年一月一五日、長治は秀吉軍の浅野弥兵衛(長政)に書状を送り、降伏を申し出た。それ以上、家臣に極限状態を強いることが耐えがたかったのである。命を落とした者は、すでに数千名を数えていた。書状には、彼と弟の友之、叔父の別所吉親の三名が腹を切ることで、まだ生きている者たちを許してやってほしいと記されていた。
弥兵衛から報告を受けた秀吉は、彼の書状に目を通し、
「よい大将じゃ。家臣思いの、みごとな大将じゃ」
と言って落涙したという。そして、彼の申し出を認めるという返書とともに、二〇樽の酒と肴を城内に送った。
切腹の時刻は一七日申の刻(午後四時ごろ)と決められた。長治は、妻子や家臣たちとの宴を催し、残された時間を惜しんだ。
そして、当日を迎えると、まだ夜が明けきらないうちに長治は三歳の世継ぎを膝に乗せ、その後ろ髪を撫でてから小さな胸を突き刺した。続いて、その刀で妻の心臓を貫いた。弟の友之も、同様にして妻を一足先に旅立たせた。
妻子との別れを終えた兄弟は客殿の広間の畳に並んで座り、それぞれの準備を始めた。長治は少しも気色を変えることなく、むしろ穏やかな表情で笑みさえ浮かべていた。
「お供をする者もなく、無念でございます」
介錯を務める三宅治忠はそう言って、彼の後ろに控えた。
長治は腹に刀を突き立てると、作法に従って十字に切った。その姿を見届けた治忠は、彼の首を切った。友之も、刀や脇差、衣装を形見として周囲の者に分け与えた後、兄の後を追った。長治は二三歳、友之は二一歳であった。
翌日、城内の人々は約束どおりに命を助けられ、兄弟と吉親の首は秀吉によって京都の信長のもとへ送られた。
兄弟の辞世の句が伝えられている。
長治の辞世
いまはただ恨みもあらず諸人の 命に代わるわが身と思えば
友之の辞世
命をも惜しまざりけり梓弓 末の世までの名を思う身は

