中村彝、佐伯祐三、松本竣介、宮脇愛子といった新宿ゆかりの芸術家たちにより、近代美術の拠点の一つである新宿の半世紀にわたるアートシーンをたどる意欲的な展覧会です。
新宿に生きたアーティストたちが再結集!大きな3つのポイントとは?
松本竣介《立てる像》 1942年 神奈川県立近代美術館 ©上野則宏
まず大きな見どころは3つ。1つ目は「アートで知る、新宿の文化史」と題し、明治から戦後初期にかけて4つの区分を設定し、それぞれを異なる運動として捉え、新宿に華開いた文化の多様性と持続性についてひも解きます。
「見て、歩いて、味わう新宿」は2つ目のキーワード。同館の位置する新宿では、今も数々のゆかりの地を巡ることが出来ますが、展覧会で新宿の文化に触れたのち、館の外へと飛び出してゆかりの地の息吹に浸る、いわば逆没入型の体験を味わえます。
そして最後にあげられるのが、著名なアーティストたちの意外な関係です。新宿という地域性に注目して取り上げることで、新宿に生きたアーティストたちが再結集するまたとない機会が実現します。
展覧会の構成と各章の見どころ紹介
それでは展示の構成に沿って、細かな見どころをご紹介しましょう。
1章【中村彝と中村屋 ルーツとしての新宿】
中村彝《頭蓋骨を持てる自画像》 1923年 公益財団法人大原芸術財団 大原美術館
1909(明治42)年、相馬愛蔵・黒光夫妻が新宿に中村屋本店を開いたことをきっかけに、荻原守衛(碌山)や中村彝ら多くの若き芸術家が集い、「中村屋サロン」が生まれました。これは日本近代美術の源流の一つといえます。
荻原守衛はロダンに感銘を受けて彫刻家に転向し、短い生涯の中で日本の彫刻史に大きな足跡を残しました。中村彝はサロンの中心的存在として多くの作家を導き、新宿・下落合に芸術家たちの交流の場を築きました。
本章では、日本近代美術と新宿の美術文化を育んだ中村彝に焦点を当て、彼に影響を受けた作家たちの作品を通し、モダンアートの拠点としての新宿をあらためて見つめ直します。
コラム1【文学と美術】
岸田劉生《武者小路実篤像》 1914年 東京都現代美術館
1910(明治43)年、雑誌『白樺』が創刊されました。西洋美術に触れる機会が限られていた当時、セザンヌやファン・ゴッホの作品をカラー図版で紹介し、日本に新しい美術の風をもたらしました。同年、パリから帰国した有島生馬はロダンに『白樺』と浮世絵を贈り、翌年にはロダンから彫刻3点が寄贈されています。
『白樺』の中心人物である武者小路実篤と親交が深かったのが、洋画家の岸田劉生です。劉生は大正期の美術を牽引し、実篤作品の装幀も数多く手がけました。コラム1では、新宿ゆかりの作家による肖像画や、文学者と画家の交流を物語る作品を紹介します。
2章【佐伯祐三とパリ/新宿 往還する芸術家】
佐伯祐三《立てる自画像》 1924年 大阪中之島美術館
1921(大正10)年、白樺美術館第1回展覧会でファン・ゴッホの《ひまわり》(通称「芦屋のひまわり」)が公開され、佐伯祐三は武者小路実篤宅でこの作品と対面しました。この出会いは、彼の画業に大きな影響を与えたといわれています。
同じ年、佐伯は新宿・下落合にアトリエ付きの自宅を建て、近隣の曽宮一念を通じて中村彝と知り合います。1924(大正13)年には家族とともに渡仏し、パリで里見勝蔵やヴラマンクと出会います。ヴラマンクから「アカデミックすぎる」と厳しく批判されたことをきっかけに、写実を離れたスピード感ある都市風景の画風を確立。日本の後進にも強い影響を与えました。
ここでは、パリと日本を往復しながら独自の表現を追求した佐伯祐三を中心に、その創造の軌跡をたどります。
コラム2【描かれた新宿】
木村荘八《新宿駅》 1935年
モダンアートの街・新宿の歩みは、首都東京の急速な変貌の歴史と重なります。昭和初期に刊行された『画集新宿』と『新東京百景』は、創作版画運動の成果を示す代表的な版画集です。
織田一磨は山本鼎とともに1918(大正7)年に日本創作版画協会を設立し、創作版画の普及に尽力。関東大震災から復興する東京の姿を『画集新宿』(1930[昭和5]年)などに刻みました。
『新東京百景』(1929[昭和4]年~1932[昭和7]年)は、川上澄生ら8名の作家による共同制作で、本展では100図のうち5図を紹介します。これら2つの版画集を軸に、同時代の新宿を描いた作家たちの作品を特集します。
