前代未聞の権力犯罪の全貌を暴き、警察の闇に迫った渾身のノンフィクション、石原大史著『冤罪の深層 追跡・大川原化工機事件』から〈序章 衝撃の「捏造」発言〉をお届けします。
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その瞬間、法廷に詰めかけた人々はみな息をのんだ。
「まあ、捏造(ねつぞう)ですね……」。証言台で力なくつぶやいたのは、警視庁公安部外事一課の現役捜査員。仮に警部補Xと呼ぶ。自ら担当した事件を振り返る警部補Xの声には、恥と怒りが滲(にじ)んでいた――。
2023年6月30日、東京地裁の第712号法廷。この日、開かれていたのは、横浜市の中小機械メーカー川大原化工機の社長、大川原正明氏らが、不当に逮捕勾留された損害の賠償などを求め、国や東京都を訴えた裁判だった。
2021年9月に提起された訴訟は、1年以上続いた論点整理を終え、この6月から当時の捜査員などを法廷に呼んだ証人尋問へと進んでいた。この日はその3日目。前週に開かれた2日目に続き、捜査に関わった警察官が出廷するとあって注目されていた。
前年11月に放送した「クローズアップ現代」の取材以来、既に1年以上、事件を追い続けていた私は、このとき満席となった傍聴席で開廷を待っていた。最前列には新聞・テレビ各社の記者達が陣取っている。
最初に、被告である国と東京都(警視庁)側の7名の代理人弁護士らが入廷した。みな一様に紺や黒のスーツにマスクをつけ、表情はうかがえない。
続いて大川原化工機側が原告席に着いた。大川原正明さん、同じく逮捕された元役員・島田順司さん、逮捕後、勾留中に亡くなった元顧問、相嶋静夫さんの遺族らである。
大川原さんらと私は、これまで何度も取材を重ね、顔見知りになっていた。傍聴席の私を見つけた大川原さんは一瞬笑みを見せたが、すぐに真顔に戻った。対面に陣取るマスク姿の男達を前に、緊張するなという方が難しい。
最後に裁判長らが入廷し、「法廷頭撮り」がアナウンスされた。テレビ局の代表カメラが、被告席、原告席、裁判官らを舐めるように撮影してゆく。その間、誰も一言も話さない。重苦しい沈黙が、法廷の緊張をさらに高めていった。
この日、最初に法廷に現れた証人は、警視庁公安部の現役警部補Xだった。みたところ40代半ばから後半、180センチを超えるような長身で、黒い細身のスーツを身にまとっていた。私にとって、現役の公安部の警察官を目にしたのは、このときが初めてだった。
被告・東京都の代理人が、事件のあらましや警部補Xの関わりを尋ねていく。Xは、どこか「ぶっきらぼう」とでもいうような、「はい」や「いいえ」など短い回答が多かった。面倒なことに巻き込まれ、早く終わらせたいのだろう。やり取りを聞いていた私は、今日は「期待薄」だなと、早合点しかけるところだった。
法廷の空気が一変したのは、原告側代理人、高田剛弁護士による尋問が始まった直後だった。高田弁護士は2020年の社長らの逮捕前から大川原化工機の顧問を務め、事件については、最も詳しい弁護士である。
捜査の疑問点を追及する高田弁護士に対し、警部補Xは、意外にも質問をはぐらかしたりせず、当時の経緯を詳細に語り始めた。功を焦る捜査幹部らの存在、その指示による都合の悪い証拠の無視、現場捜査員の内部告発の隠蔽……。
「捏造」発言は、Xへの尋問の最終盤、事件は「でっち上げ」ではないかと質(ただ)す高田弁護士への答えとして飛び出した。
高田弁護士「事件を荒い言葉で言うとでっち上げたというふうに言われても否めないんじゃないかなと僕は思いますが、違いますか」
警部補X「まあ、捏造ですね」
そう言って力なく俯(うつむ)いた警部補Xに、高田弁護士が畳みかけるように質した。
高田弁護士「逮捕勾留の必要なんて、そもそもなかったんじゃないかっていうことになると思いますけど、違いますか」
警部補X「必要なかったです」
逮捕が「必要なかった」と断言した後、Xは、ようやく顔を上げた。
警視庁内部から突如放たれた自己批判、巨大組織の綻(ほころ)びが、思いもよらぬ形で露(あら)わになった瞬間だった。
続いて出廷した、捜査に携わった現役警察官・警部補Yもまた、X同様の捜査批判を繰り返した。
2人の尋問が続くにつれ法廷に集まった記者達の間には異様な空気が流れ始めていた。一言一句を聞き逃すまいと身を乗り出す者、ハンカチでしきりに汗を拭う者、腕時計を何度も見直す者もいた。
2人の証言は、私にとっても想像を超えたものだった。後に詳述するように、確かに「予兆」はあったと言える。しかし、従来、秘匿性が極めて高いといわれる警視庁公安部の内実が、公の場でここまで赤裸々に語られるとは、にわかには信じられなかった。
しかし、彼らの証言は、それまでの取材で入手していた当時の捜査資料と矛盾なく、事件にまつわる「なぜ」に、新たな光を当てていることは間違いなかった。
法廷を飛び出した記者達は、「捏造」発言をはじめとした捜査員らの証言を速報した。私の元には、事件の取材を続けていることを知る同僚達から、速報を見たと続々と連絡が入った。
「とんでもないことになったな」、「これは番組になるぞ」。事件を巡る見えない歯車が、ゴトリと音を立てて回り始めるのを感じた。
異例の証言から間もなく、急遽、特集番組の放送に向け、記者2名、私を含めたディレクター2名による取材班を結成した。
私達は、2023年9月のNHKスペシャル「“冤罪”の深層~警視庁公安部で何が~」を皮切りに、同12月にETV特集で「続報“冤罪”の深層~新資料は何を語るのか~」、翌2024年2月にNHKスペシャル「続・“冤罪”の深層~警視庁公安部・深まる闇~」と、およそ半年で3本のドキュメンタリー番組を制作。さらに2025年1月にNHKスペシャル「“冤罪”の深層~警視庁公安部・内部音声の衝撃~」を放送し、事件の独自検証を続けていった。
その過程で得た数々の内部証言と未公開資料から見えた警視庁公安部の闇の「深層」は、思いもよらぬものだった。

