【第2話】思い出のホットサンド 小花朱音

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アラームが鳴る前に、自然と目が覚めた。
喉がひどく渇いて、まだ重い体を引きずってリビングへと向かう。
冷蔵庫からお茶の入ったポットを取り出し、コップに注いでそのまま喉に流し込んだ。
「……ふう」
浅く息を吐いて、テラス窓のカーテンを開ける。陽光が差し込み、リビングが優しい光で明るくなった。
「本当に違う家だ。夢じゃない……」
昨日はあまり眠れなかった。
いつもと違う場所は、やはり慣れなくて。正直、今まで住んでいた家が頭に浮かんだりもしていた。
長年住み慣れた家と家族から離れて、友達とルームシェア。自分でも思いきった選択をしたと思う。
きっかけは、息子の一言だった。「母さんもこれからは好きに生きれば?」何気なく言われた言葉は、やけにあたしの心に刺さった。
家族のことを第一に考えるのが当たり前で、今まで自分のことは後回しにしてきた。
雅樹が大学進学と共に家を出るまで、子供を育て上げたあとの自分の人生なんて考えたことがなかったんだ。
数日後に部屋を掃除していると、瑠璃から届いていた転居ハガキが目に留まった。だいぶ前に来てたハガキなのに、妙に懐かしさが込みあげてきて……。
昔の自分を思い出した途端、あたしを縛っていた糸が、静かに解けていくのを感じた。
「まさか、そのまま離婚届を置いて、家を出るとはね……」
今回ばかりは自分の行動力に、あたしが一番驚いている。
「瑠璃と翠は起きてきてない……か」
時計を見ると六時を過ぎたばかり。きっとまだ寝てるよね。
朝食は当番制と決めたけど、誰から始めるとか、細かいことまで決めていなかった。
当番制にしようって言い出しっぺはあたしだし、今日は朝ごはん作ろうかな……。
これでも専業主婦をしてたんだ。きっと二人よりは料理をしていたと思う。
さっそく冷蔵庫とパントリーをチェックして、残り物がないか確認してみる。
使えそうだと思った食材は、食パン、薄切りハム、チーズ。
野菜室には玉ねぎがあった。
……勝手に使って怒られるかな。
まあ、その時はスーパーが開いたら、買いなおせばいい。
「これだけあれば、アレが作れるかな」
食材を見て、すぐに思いついたものがあった。
閃いたまま、あたしはキャリーケースを開ける。荷解きなんて明日でいいやと思って、そのままリビングに置いたままだった。持ってきた洋服や日用品をかき分けて、あるものを取り出す。それは、鉄製のホットサンドメーカー。
「……なつかし」
口から力なく言葉がこぼれた。
改めて見ると、あちこちに焦げ跡が残っている。
誰が見ても使い込んでいるのがわかるほど、年季が入っていた。じっと見つめていると、頭の中に古い記憶が蘇る。
「ママー! 今日の朝ごはんはホットサンド!? やったー。僕、ママのホットサンドが世界一好きだよ!」
脳裏に浮かんだ古い記憶は、幼い頃の雅樹の笑顔だった。
ホットサンドは、雅樹の大好物。とはいっても、いつのことだろう。
あたしの中で、自分の都合のいいように記憶が止まってるのかもしれない。
中学生、高校生になってからも朝ごはんに出したことはあったけど。喜ばれるどころか、反応なんて全くなかったな。
成長は嬉しいと思う反面、息子があたしの手から少しずつ離れていくようで、胸が痛んだのを覚えている。あの頃の感情を思い出して、なぜだか泣きそうになってきた。
歳を取ってから、大したことじゃなくても涙腺がゆるんで困ったものだ。
……瑠璃と翠が起きてくる前に下準備は終わらせないと。
少しにじんだ涙を指で押さえた。気を取りなおしてすっと背筋を伸ばす。
今日作るホットサンドは、難しそうに見えて実はとても簡単。
だって、食材を食パンで挟んで焼けばいいだけだから。
種類を楽しめるように、何パターンか作ろうと思う。
用意する材料は、薄切りハム、チーズ、玉ねぎ、ツナ缶。包丁で切る食材は一つしかない。
まずは、玉ねぎをみじん切りにする。玉ねぎに包丁を入れると、目にしみて涙が出そうになった。なんとか堪えて作業を終える。
次はツナの汁気を切っていく。具材に水っ気が多いのはホットサンドと相性が悪い。
ツナ缶の蓋についたリングを立てる。蓋は全て開けずに、そのまま傾けて中の汁気だけを別容器に移すようにする。これが一番洗い物を増やさずにできる方法だと思う。
ツナとみじん切りにした玉ねぎを、ボウルに入れて混ぜ合わせていく。そこにマヨネーズを和えれば、ツナマヨの完成だ。
具材の下準備はこのくらい。あとは食パンで挟んで焼くだけ。
「おはよぉ……」
料理に集中していたら、寝ぐせがついたままの瑠璃がリビングにやってきた。
「瑠璃、おはよ! 見て見て。じゃじゃーん!」
ちょっと自慢したくて、わざとらしく声を張った。
「……こ、これは?」
まだ起きたての瑠璃は反応が鈍い。
開ききっていなかった瑠璃の目は、ホットサンドメーカーをじっと捉えた。すると興味津々といった感じで、目がぱちりと開かれる。
「これって……え、なんだっけ?」
ピンとこなかったようで、首を傾げた。
「やっと終わったよお。お腹空いたぁ」
翠が肩をぐるりと回して、あくびをしながらドアを開けた。きっと徹夜して今まで、執筆作業をしていたのだろう。
「翠も見て―。今日の朝ごはんはホットサンドにしよう?」
ホットサンドメーカーを見た瞬間、翠の目はキラリと輝いた。
「これでホットサンド作れるの? 直火式のやつ?」
「そうだよー。家から持ってきてたんだ」
「家でホットサンドってカフェみたい……最高だよ」
瑠璃の目尻が下がって、表情が明るくなる。
「わたしも自分で作ってみたいなぁとは思ったことあったけど、結局買わずに終わっちゃったのよね」
どうやら二人は家でホットサンドを作ったことがないらしい。余計に食べさせたい気持ちが高まる。
「具材のリクエストとかある?」
瑠璃と翠は顔を見合わせて、少し考えているみたい。
「……ここは朱音にお任せするのが正解な気がする!」
「わたしも朱音にお任せしようかなあ」
「おっけー。任せて!」
あとは焼くだけなので、二人には朝の支度をするように促した。その間に作ってしまおう。気合いを入れなおして、さっそく作業に取り掛かかる。
まずは、ホットサンドメーカーに食パンを乗せる。そして、薄切りハム、チーズを乗せた。あとはぎゅっと挟んで両面を焼くだけ。
料理工程は、驚くほど少ない。
じっくり火にかけ、こんがりと焼いていく。
焼いている間に、進められる作業をしていこう。何度も家族分のホットサンドを作ってたので、流れはバッチリだ。
しばらく経つと、こんがりと香ばしい匂いが漂ってきた。
きっとそろそろいい頃だ。長年の勘は間違いないと思う。火を止め、ホットサンドメーカーをコンロからそっと下ろす。底に残る熱を感じながら、ためらわずにパカッと開けた。すると、香ばしい匂いがあたたかな空気と共にやってきた。
「ふぁ~~」
小麦色に焼けた姿と、香ばしい匂いに、思わず吐息が漏れる。
パンの焼けた匂いは、それだけで幸福な気持ちにさせてくれる。上機嫌で焼きたてのホットサンドを、まな板の上に移した。この調子でどんどん焼いていこう。
コンロの横で、熱の残るホットサンドメーカーを開いて食パンを乗せる。次は、ツナマヨをたっぷり。さらにチーズを乗せた。やはりホットサンドにチーズはマストだと思う。
最後に食パンを重ねたら準備は完了。再びコンロに移して火をかけて、第二弾のホットサンドを仕込む。
「あー、あたしの好きな組み合わせも食べてほしかったなあ」
一番お気に入りの具材があった。それは手間いらずで、とても簡単なのだけれど……。
「ねぇ、レトルトカレーってあったりする?」
あたしは声を張り上げて質問を投げかける。
「あるよ~」
洗面所で歯磨きの最中だった瑠璃が、ひょこっと顔を出した。
「あるの!? 使ってもいい?」
「……朝からカレー食べるの? 別にいいけど」
ちょっと驚いたのか、ぽかんと間があったような気がした。
朝からカレーと聞くと、重く感じる気持ちもわかる。
だけど……。嬉しくなって、反射的に微笑む。あたしがホットサンドの中で一番好きな具材は、カレーとチーズの組み合わせなんだ。
ツナマヨ入りのホットサンドが焼きあがったあと、瑠璃が渡してくれたレトルトカレーを規定の時間レンジであたためた。そして、食パンの上に乗せる。もちろんチーズも欠かさない。あとは、今までと同様挟んで焼くだけ。
「なんかしわが増えてるぅー」
鏡を見たであろう翠が、両手で頬を押さえながら戻ってきた。
「大丈夫。そのしわ、昨日もあったから」
大袈裟に悲観する翠に、瑠璃は間髪容れずに答えた。
鋭い言い方だけど、瑠璃の性格をわかっているから棘は感じない。
「それは、全然大丈夫じゃないのよー」
穏やかな声で言うと、翠はパシッと瑠璃の背中を叩いた。
ああ、そうだった。学生の頃から、穏やかでどこか天然な発言をする翠に、瑠璃がツッコミを入れてたっけ。昔と変わらない二人の軽快なやり取りに、思わず口元がほころんだ。
次々と焼いているうちに、瑠璃と翠は朝の支度が終わったようだ。
「なにか手伝おうか?」
「……じゃあ、コーヒーお願いしようかな」
二人を見て思い出に浸っていたことを気づかれないように、すぐに切り替える。
瑠璃は手際よくカップを準備すると、インスタントコーヒーを振り入れ、お湯を注いでいく。
ふわりと立ち上る湯気と、ほろ苦い香りが広がった。
最後の仕上げにこんがりと焼きあがったホットサンドに包丁を入れる。見栄えするように斜めに入れて、三角の形になるようにした。
――サクッ。
包丁が入ると、こんがり焼けたパンの切れる音が響いた。次の瞬間、たっぷり乗せたチーズが溶けてあふれ出す。とろりと溶け出すチーズの威力は強い。思わずごくりと喉が鳴る。同時に「ぐう」とお腹も鳴り出した。
もう待ちきれない。テーブルに運んでいこう。
白い皿に並べた、三角形のホットサンドは、こんがり小麦色。切れ目から見えるハムとチーズ。鮮やかなコントラストに目が離せない。
それに湯気の合間から見えるあたたかなコーヒー。
テーブルに並べられた朝食を見たあたしたちは、揃って喉をごくんと鳴らした。待ちきれないといった様子で頷き合う。
「朱音、ありがとうね。おいしそうすぎる……」
「ほんと、朝からこんなに素敵なごはんを食べれるなんて幸せだわ」
二人が大袈裟なほど褒めてくれるので、なんだか照れくさくなってきた。
「いただきまーす」
「いただきます」
「いただきます」
手を合わせて挨拶をする。
「わあ……どれにしよう」
「朱音のおすすめはある?」
「えっとね、これは定番で間違いないハムチーズ。こっちはツナマヨ。これがホットサンドにも相性がいいんだ」
指をさしながら、一通り説明をする。
迷いながらも、瑠璃はハムチーズ。翠はツナマヨとそれぞれ好きな具材を選んでいた。あたしが選んだのは、一番好きなカレー。手に取ると焼き立ての熱が手に伝わってくる。
顔を見合わせてから、いよいよホットサンドにかじりつく。
――サクッ
同時にかぶりついたので、香ばしい音が響き渡った。
「んっ、これこれ! おいしい」
サクッとした食感の次に、じゅわっと広ひろがるカレーの香辛料。濃厚なチーズと口の中で絡み合う。チーズのおかげで、ピリッとする辛みが中和された。
「……うまッっ」
瑠璃は目を丸くさせながら、ぼそりと言った。自然と零れ落ちた感想が嬉しい。
「おいしいー。チーズがとろける」
翠は味わうように目を細めた。翠と瑠璃のおいしい顔を確認して、心がほっとあたたまる。続けてあたしも二口目を口に運ぶ。
「やっぱりカレーのホットサンド、おいしい~~。幸せぇ~」
噛み締めるたびに、あふれ出てくるカレーとチーズの相性は抜群だ。
この組み合わせがたまらない。久しぶりに作ったけど、なかなかよくできた。
おいしさに浸っていると、じっと見つめられていたことに気づく。
「朝からカレー重そうって思ったけど、この匂いはやばい」
「朱音が食べてるホットサンドからの香りが、もうずっと食欲を刺激してくるよ」
「私も次、カレー食べたい!」
「え、待って。瑠璃もなの? わたしも食べたいと思ってた……」
二人の視線はあたしの食べかけのホットサンドを見ていた。スパイスの香りを嗅いだら、この魅力に取りつかれたみたい。
「……まだあるからどうぞ」
差し出すように声をかけた。遠慮なく手を伸ばしたと思ったら、同時に口に運ぶ。
「んっ! おいしい!」
「カレーとチーズの相性抜群だね。食べてみたら全然重く感じない」
嬉しそうに笑った顔を見ると、不思議と嬉しくなる。
好きなものを共有できるって、こんなに嬉しいことなんだ。
その小さな幸せを噛みしめながら、あたしも残りの一口を味わった。
「ホットサンドなんて、洒落てるわよね。朱音はよく作ってたの?」
もぐもぐと頬張りながら翠が聞いてきた。
「……うん。雅樹……息子がね、小さい頃好きだったんだ」
また頭の中に古い記憶が蘇る。それはだいぶ昔のことなのに、頭の中に写真が存在するみたいに鮮明に思い出せる。
「子供の頃の話ね……。それも昔すぎて、本当に好きだったのかも今ではわからない。このホットサンドメーカーもずっと使ってなかったし。こうして供養できて良かったよ」
しんみりしたくなくて、からっと笑ってみせた。
「あら、だったら雅樹くんに電話して聞いてみればいいじゃない」
思わず翠の顔を見返した。翠は大人しそうに見えて、たまにとんでもないことを言ってくる。
「……え? 今?」
「そう、今」
「いやいや、電話するほどのことでも……」
「わざわざなんて、電話ってそのためにあるんだよ? 気軽に話すための通信機なんだから」
翠は穏やかな笑みのまま。けれどきっぱりと言った。
「あれ、この光景既視感あるなあ。そういえば、昔もこんなことなかった?」
瑠璃はそう言って、首をひねりながらなにかを考えている。
昔……? 同じようなことあったっけ。
すぐには思い出せなくて、考えていると。
「わかった! 高校の時。私と翠が同じ台詞を朱音に言ってなかった?」
「そうだ、思い出した! あったね。そんなこと。岡部くんに電話してみなよって。背中押したのよね」
あたしのことは置いてけぼりで、二人はキャッキャと楽しそう。
岡部くんとは、高校時代に少しの間付き合っていた人。
付き合ったといっても、高校時代の淡い恋愛で、今日まで思い出すこともなかった。
「全く話が見えないんですけど……」
話が見えないあたしは、温度差を感じながらも返答する。
「朱音、全然覚えてないの?」
「……うん」
「朱音いつもは破天荒なくせに。いざという時、全然岡部くんに話しかけなくてさ」
瑠璃の話を聞いて少しずつ思い出してきた。あたしはここぞという時に、勇気を出せないことがたびたびある。
「それで、私と翠が何度も『直接が無理なら、電話してみなよ!』って言ったの」
ああ、ようやく思い出した。
当時岡部くんに片思いしていた時の話だと思う。なかなか話しかけられなくて、二人が背中を押してくれたんだった。
だけど、今考えたら、電話の方がハードルが高い気がする。
「それがきっかけで、朱音たちは付き合うようになったのよね」
「……まあ、二カ月で別れたけどね」
そういえばそうだった。口うるさく言われたおかげで電話をかけて。
それがきっかけで付き合うことになったんだ。
昔話でつい盛りあがってしまったけど。
岡部くんのことと、雅樹のこと。なんの関係があるのだろう……。
しばらく考えて顔をあげると、にこりと笑う翠と瑠璃と目が合った。
「今、なんで岡部くんの話になったんだろうって思ってたでしょ?」
ぎくりとする。図星だったからだ。瑠璃はこういうことに、とても勘が鋭い。
「つまり……わたしたちに背中を押されたら、のっとけってことよ」
「ん?」
翠は優しく言ったけど、ちょっと意図がわからない。
「息子くんに電話してみなよってこと」
「……え」
そういうことか。
雅樹とは仲が悪かったわけではない。だけど、あたしはいきなり離婚届を置いて家を飛び出した。一人暮らしをしている雅樹も、きっと元旦那から聞いているはず。
「なんか……かけづらいんだよねぇ」
そうぽつりと呟いた時だった。 テーブルに置いていたスマホが震える。
画面に表示された名前は、息子の雅樹。
「あ、雅樹からだ」
「あら、電話じゃない? 噂をすればってやつ?」
「私たち離れてるからさ……」
気を利かせてくれたのか、翠と瑠璃はその場からそっと離れていった。
着信音が鳴り続けるスマホを見つめ、ごくりと息を呑む。ゆっくり通話ボタンを押した。
「……は、はい」
「もしもし母さん? 家出てったって聞いたけど」
「あ、うん……」
「俺がけしかけたしな? 良かったんじゃない? 今どこにいんの?」
雅樹は特に気にしてなさそうに、からりとした声で言った。その様子にひとまずほっとする。
「友達のところ。ルームシェアすることになって」
「……母さんが、ルームシェア!?」
よほど驚いたのか、雅樹の声のボリュームがあがった。
「高校時代の友達とね」
「ふーん。いいじゃん」
「そう。これからは自分の人生楽しもうかなーって」
「……そうだよ。その方がいいよ。あーあれだな。そうだ……」
雅樹はなにか言いにくいのか、言葉を濁した。
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