岡村勲弁護士が2025年2月24日、95歳で亡くなった。山一證券の代理人だったことで逆恨みした男に妻を殺害され、2000年に全国犯罪被害者の会(あすの会)を設立。代表として、被害者の刑事裁判参加の実現、犯罪被害者等基本法の成立などに尽力した。5月12日に東京・如水会館で行われたお別れの会には、犯罪被害者や遺族、法曹、政治家ら約500人が参列、供花は300近くを数えた。
遺志を継ぐ弁護士や関係者の話から、その足跡をたどる。 (弁護士ドットコムタイムズVol.77<2025年12月発行>より)
● 傍聴席から廷内へ 被害者の悲願かなう
2024年7月、被害者庁の設立などを求めるシンポジウムで、冒頭あいさつをした岡村弁護士は車椅子に座っていた。自宅で転倒し、リハビリ中だった。しかし、2度目に登壇した際は立ち上がり、自分の手でマイクを持って、力強く訴えた。
「被害者になりたくてなったわけではありません。いまは安全でも、あすは被害者になるかもしれない。あすの自分たちのためにも、もう被害者が困ることのない制度をつくっていただきたい」
あすの会は、かつて刑事裁判の期日すら知らされることもなく、傍聴席で涙をのんでいた被害者や遺族らが自身の権利を得るために立ち上がった団体だ。自分たちはその恩恵にあずかれずとも、あすの被害者のために−。
後継の代表に就いた静岡県の白井孝一弁護士は、1990年代から日弁連で被害者参加制度や付帯私訴について研究していたあすの会弁護団の中心人物。2013年に息子を交通事故で亡くし、被害者遺族となった。
「自分が制度を使うとは夢にも思わなかった。本人や家族が意見陳述するのは、加害者への追及のためではなく、被害者の尊厳・名誉を守るため。その意味を改めて感じました」
制度開始から17年、いまは毎年延べ1500人ほどの被害者が刑事裁判に参加。検察官の隣に座るのも見慣れた光景になった。しかし、当初は学者や弁護士団体から反対の声が強く、岡村弁護士も実現には時間がかかると語っていたという。刑事学者で被害者学の権威・諸澤英道氏を通じて知り合った白井弁護士が主導し、欧州の制度を研究。知見のある弁護士を集め、援軍を固めていった。
ドイツとフランスへの調査(2002年)、全国での署名活動(2003年)で事態は一気に動く。ドイツで岡村弁護士は「被害者が参加すると復讐法廷になるか」「国選弁護人の負担が増えるか」など反対派が懸念していた事項を繰り返し質問した。「率直な疑問をぶつける。視点は一貫し、頑として熱い心を持っている。それが相手を変えるのでしょう」(白井弁護士)。
このころ法務省国際課長だった元検事総長の林眞琴弁護士も親交があった一人。お別れの会で「人生を教えてくれた大恩人です」と語っていた。司法制度改革も追い風となり、2004年に基本法が成立。忘れられた存在だった被害者の権利確立への道が開かれた。

● 豪快かつ緻密 話し好きで人脈広く
お別れの会で祭壇に掲げられた書は「人つながりて事なる」。2018年にしたためたもので「事が動くときは必要な時に必要な人がそばにいる」と話していた。要職を務めた法曹界だけでなく、岡村夫妻の母校である一橋大の同窓会(如水会)をはじめ政財界の人脈が広く、活動の後ろ盾となった。岡村弁護士がそうした人との縁を大事にしたからだろう。
如水会で2期下の石原慎太郎氏が仲介し、文藝春秋に『私は見た「犯罪被害者」の地獄絵−−妻を凶刃に奪われて弁護士が知った司法の矛盾』(2000年7月号)を寄稿、被害者の実情を世に訴えた。2003年に小泉純一郎首相と直接対面できたのも、第一東京弁護士会の副会長を務めた杉浦正健衆院議員が一役買ったという。
あすの会も最初は5人の被害者から始まったが、電話やファクスで寄せられる多くの相談に岡村弁護士が夜中まで応じた。会員は全国に広がり、署名活動では55万筆超を集めた。
光市母子殺害事件遺族の本村洋さんは「僕が『犯罪のない社会をつくりたい』と言うと、岡村先生は『それは歴史を見ても無理です。でも人間同士が支え合う・助け合う社会に変えませんか』と言われました。多くの参列者を見て、少しでもそれに近づいたような気がします」と話した。
岡村弁護士はひときわ若かった本村さんに「先の人生は長いから、会の活動は無理しないように」と伝えていた。一人一人の事情に気を配ることも忘れなかった。
そんな岡村弁護士の姿を20年間、間近で見てきたのが岡村綜合法律事務所の米田龍玄弁護士だ。亡くなる3週間前にも酒を酌み交わし、3時間にわたって議論した。今後の被害者施策のこと、裁判所や弁護士会の改革のこと−。50歳差があっても言いたいことを言い合えた。
「同じ弁護士なんだから先輩や後輩はないという考え方でした。上の期の先輩弁護士であっても正直に自分の意見を言えという教えは、私の人格形成に大きな影響を与えました」(米田弁護士)。岡村弁護士は自身で体現しても見せた。副会長を務めた日弁連に対して、意見をぶつけ続けた。
2016年の人権擁護大会で死刑廃止の宣言案が出た時には、大々的に反対を表明。「個人の思想・信条に関わることについて、総意のように採択するなんて馬鹿げている」と訴えるためにチンドン屋を呼んだ。こんな豪快な面がある一方で、手紙やメールの文面の細部にこだわる緻密さもあったと米田弁護士は振り返る。
いつしか多くの助言を受ける中で、岡村弁護士の発する言葉をメモするようになった。「法律以外の本を読んで視野を広げよ」「法律は道具にすぎない。法律に使われるな」「文章は読み手を意識して書け。書面もしかりで、知識をひけらかしたり、独りよがりになってはいけない」「社会を知れ。現場に行ってこそが勉強」。折に触れ、見返しているという。
「岡村先生がいなかったら被害者参加は無理だった」。被害者らは一様に語る。岡村弁護士は会員と一緒に悔しがり、一緒に怒り、一緒に泣いた。数多の人に手を差し伸べ、その手をつないで、導いた。「この活動は命懸けだ」と語っていた岡村弁護士。国による賠償金の立て替え制度や被害者庁設立など、まだ課題は残っている。思いは、次代に託された。
【プロフィール】 岡村勲(おかむら・いさお)弁護士
1929年、高知県幡多郡(現宿毛市)生まれ。一橋大経済学部、同大学院法学研究科を経て1959年に弁護士登録(11期)。第一東京弁護士会会長、日弁連副会長を歴任、民事訴訟の迅速化に向けた研究を指揮する。1988年には高知県の修学旅行生ら28人が犠牲となった上海列車事故の補償交渉弁護団長を務めた(文藝春秋企画出版部『上海列車事故補償交渉』)。妻・真苗さんが殺害された事件をきっかけに、70歳を超えてから犯罪被害者の権利確立に向けた活動に身を投じた。
事務所名 :岡村綜合法律事務所

