猫のにゃ温泉~開店前~

今日も駅へと続く道を、人間がせわしなく駆け抜けていく。
同じような色のスーツに身を包み、まるで駅まで競争でもしているかのよう。どの顔も険しく、朝だというのにすでに疲れがにじんでいる。
俺たち猫みたく、のんびり生きればいいものを。眠い時に眠って、遊びたい時に遊べば、眉間のシワも少しは消えるだろう。
大通りをあとにし、商店街に入ると、急に人間の姿がなくなる。脇にある小道の先に、俺の店がある。
チリン。朱色の首輪についた鈴が音を立てた。前の飼い主が買ってくれたものだ。
そいつは、仕事から帰ってくるなり俺を抱きしめ、お腹に顔をうずめるのが好きだった。部屋にいると常に俺の姿を探し、寝る時だって離れなかった。
窮屈だったし我慢もさせられたが、悪くないと思えた。
でも、今はもういない。
詳しく語るのはやめておく。思い出すだけで、毛が逆立ちそうになるからな。
とにかく俺はひとりぼっちになった。野良になるか仕事猫になるか。残された道はそれしかなかった。
店の引き戸に掲げた白いのれんを見上げる。
『日帰りにゃ温泉』
いい名前だ。〝日帰り〟ってのが特にいい。
が、問題なのは、引き戸の横に立てかけてある看板のほう。
縦長の板に、『復讐はじめました』と書いてある。
冷やし中華じゃあるまいし。そもそも、あれのどこが美味いんだ? 酸っぱいだけじゃねえか。やっぱり猫といえばカリカリだ。
断じて言うが、復讐屋をはじめたのは社長である俺の意思ではない。
そうなったのには深い理由があって……。
「ふあああ」
なんだか眠くなり、あくびをしていると、
「コテツ、おはよう」
うしろからルナが声をかけてきた。今日も銀色の毛が艶やかに光っている。
ロシアンブルーのルナは美人だが、元野良なのでやや気が強い。
「その名前で呼ぶなって何度言えばわかるんだ」
「あら、いい名前ですわ。〝プレジ〟っていうあだ名のほうが違和感がありますの」
両親が海外生まれのせいで、ルナの日本語はどこかぎこちない。
「この日帰り温泉旅館の社長、つまり、プレジデントなんだからおかしくないだろ。コテツという名前のほうが小物っぽくて好きじゃない」
「ふうん」ルナは興味なさそうに答えると、ひょいと立ち上がって、ほうきとちり取りを渡してきた。
「ではプレジ社長、お昼前の来客に備えて、しっかり掃除をしてくださいな」
「外で二足歩行するなと言ってるだろ。誰かに見られたらどうすんだよ」
「大丈夫ですわ。この店や私たちは、普通の人間には見えませんの」
「気持ちの問題だと言ってるんだ。とにかく掃除はそっちでやってくれ」
掃除道具を返そうとするが、もうルナは背を向けてしまっている。
「女将の仕事は山ほどありますの。それくらいやってくださいな」
言葉は丁寧だが、言い返そうものなら全力で反撃されることは経験済みだ。
今日の来客は、四十代の女性と聞く。
「癒やされに来るのか、復讐に来るのか……さて、今日はどっちだ?」
客は、一日につきひとりだけ。掃除なんか、あとでサッとすればいいだろう。
ルナには怒鳴られるかもしれんが、こっそり畳部屋で寝ることにしよう。
店に戻り、受付の横をそっと通り過ぎる。こういう時、足音を出さない肉球は便利だ。
畳部屋に到着した途端、俺は脱力する。
部屋のど真ん中で、ルナが体を丸め、気持ちよさそうに寝ていたのだ。
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