『このミス』大賞(『元彼の遺言状』)、山本周五郎賞(『女の国会』)受賞作家・新川帆立の最新作は、恋と魔法の学園ファンタジー『魔法律学校の麗人執事』!
12月24日『魔法律学校の麗人執事3 シーサイド・アドベンチャー』の発売を記念して、試し読みを全12回でお届けいたします。
* * *
目を奪われた。
夢の国にふさわしい、王子様みたいな美青年だったから。
顔にかかる髪は、絹糸のように細く、蜂蜜色に輝いていた。目は碧い。薄い唇から真っ白な歯がこぼれるようにのぞいた。甘く笑いかけ、私に向かって手を差し伸べた。
あっ、握手か。
あまりの神々しさに固まっていた脳を無理やり働かせた。汗を制服でふいてから右手を差し出す。
青年は微笑みを浮かべたまま、私に一歩近づいた。
「よろしく」
手を握ろうとしたその瞬間、
「――なんて言うわけないだろ」
青年は手を引っ込めて、口元を歪ませた。その目には冷艶な光が宿っていた。
鋭い視線に射抜かれて、私は身を固くした。
「まったく魔力を感じない。お前みたいなド庶民には、触りたくもない。さっさと失せろよ」
「しかし」混乱する頭を必死に働かせながら言った。「今日から勤務する予定なんです。雇用契約書もあります」
青年に向かって契約書をひろげて見せた。
彼の目が一段と険しくなった。この世のすべてを憎み、さげすむような強烈な光が、瞳を支配していた。
「えっ?」
ふいに、衝撃が走ったかと思うと、私の身体は床に転がった。青年は少しも動いていない。透明な拳に殴られたようだった。
とっさに受け身をとって、顔をあげた。
驚きながらも、つとめて冷静に周囲を見た。何が起きたのか分からなかった。使用人たちは石像のように直立不動の姿勢でいる。皆、無表情だ。助けに入る気配はない。
魔法、なのか。
この程度の打撃なら恐れる必要はない。だが、より強力で予測のつかない攻撃が続きうる。身がすくんだ。
一体どういうことだろう。
だまされた? 雇用契約なんて嘘で、何かの罠なのか。いや、そんなわけない。私のような無名の十五歳を罠にかけたって何のメリットもない。
しかし目下ピンチなのは確かだ。相手はざっと四十人。魔法の力を差し引いても、多勢に無勢である。
青年は私に一歩近づき、見おろした。
「こんなものを俺に見せてどういうつもりだ」
私を見る目があまりに恐ろしくて鳥肌が立った。視線は矢のように私の身体を突き抜けていった。
「お前に俺の執事がつとまるわけないだろ。身のほどを知れよ」
声と同時に、どこからともなく風が吹いた。とっさに近くの柱に手を伸ばし、吹き飛ばされるのを防いだ。だが風の勢いはどんどん強くなる。
「えっ、ちょっと、何?」
「なあド庶民、俺様の魔法を目に焼きつけろよ。珍しいものを見られて、よかっただろ? 生涯の思い出として、せいぜい生きていけよ。残りのつまんねえ人生をな!」
轟とした突風が吹き、手が柱から離れた。身体が宙に浮き、なす術もなく、扉の外に吹き飛ばされた。
「何? 何なの?」
地面にどさりとぶつかり、二、三回転して止まった。
「痛っ……」腰をさすりながら立ちあがる。
目の前の扉は、すでに閉まっていた。
「待ってください。雇用契約書もあります。今日から働く予定なんです」
もう一度大声で言ってみるが何の反応もない。しばらくのあいだ、扉を叩いたり声をかけたりしていた。だが再び扉が開く気配はなかった。
雇用契約書をひろげて勤務開始日を確かめる。間違ってはいない。
聞いていた話と違いすぎる。あのおじさんは嘘つきだったのだろうか。
混乱で痛む頭に手を当てながら、周囲を見た。美しく整えられた庭が急に冷たく、よそよそしいものに感じられた。
(どうしよう……)
契約書の魔法でやってきたから、今いる場所がどこなのか分からない。時間と太陽の位置からすると、東京よりは緯度が高そうだ。湿度は低く、気温も低い。おそらく山岳地帯にいる。遠くに見える山脈は薄く雪をかぶっていた。山容から察するに、日本国内であることは間違いない。たぶん日本アルプスのどこかだろう。
となると、徒歩で敷地の外に出たところで安全には帰れない。
(物理的にも、後戻りできないってわけか)
ハハハ、と乾いた笑いがもれた。パニックになりかけた頭が落ち着いてくる。退けないなら進むしかない。
荷物を持つと、屋敷の壁に沿って歩き始めた。広大な邸宅なら、正面玄関のほかに通用口があるはずだ。そこには守衛がいるだろう。改めて事情を説明して、雇い主とつないでもらおうと思った。
――お前に俺の執事がつとまるわけないだろ。
先ほどの青年の言葉がよみがえった。「俺の執事」と彼は言った。
つまり、あの人が条ヶ崎マリス、私のご主人様なのか。
目の前が真っ暗になるような、暗澹たる気持ちだった。最悪だ。
見た目こそ、ちょっと良かった、というか、かなりかっこよかった。いや、これまで見た人類の中で一番神々しかったけど。でもだからこそ、印象が悪かった。
どうせ、甘やかされて育ったお坊ちゃんなのだろう。力で相手を押さえつけ、気に入らないことは放り出し、好き勝手に生きている。
同い年なのに私とは大違いだ。
両親の顔も知らず、修道院で育った。他の子たちの世話をしたらほめられた。嬉しかった。だから私は料理を覚え、掃除、洗濯を覚え、働くことで、身のおきどころを見つけてきた。勉強や運動を頑張ったのだって同じだ。突出した能力を持って、社会の役に立つ人間ですってアピールしないと、私のような人間に居場所はない。もともと勉強も運動も得意だったから、苦労したってほどじゃないけど。それでも大変ではあった。
あいつはそんな思い、したことないんじゃないかな。お城みたいな家で多くの使用人を従えて、皇帝みたいに暮らしているのだから。生まれたときからの勝ち組だ。
暗い気持ちになりながらも脚を動かし続けた。屋敷の周りにはうっそうとした森が広がっている。太陽が雲に隠れると、木々は影の中に黒く沈んで見えた。葉が揺れる音がざわざわと広がっていく。
そのとき、歌うような声がした。低い、少ししわがれた女の声だ。
「眠れよ、眠れ。この世の精霊よ。大地に抱かれ、安らかに……」
声の出所をたどって森の中を進んだ。けもの道ができている。アーチ状の枝をくぐった先に廐舎があった。肥料のような匂いが鼻を突いた。
「失礼します」
おそるおそる廐舎の扉に手をかけた。
瞬間、歌がやんだ。
「あんた、何だい?」
老婆がこちらを見あげた。彼女は、廐舎の廊下に座り込み、お祈りをするかのように背中を丸めていた。
ずらりと並んだ馬房には、白い馬 ――しかも、翼が生えている。
乳白色の羽根は一枚一枚が美しく重なっていて、貴婦人の扇子みたいだった。内側からほんのりと光がもれるように、身体じゅうが輝いている。
「ペガサスだ……!」
息をのんだ。

