アルフォンス・ミュシャ《ジスモンダ》1894年, Public domain, via Wikimedia Commons.
実際、1894年12月末、印刷所ルメルシエにサラ・ベルナールから「すぐに新しいポスターが必要!」という緊急の依頼が入り、休暇で主力スタッフがいないなか、たまたま残っていたミュシャに仕事が回った。しかも発端は、サラが既存の宣伝用ポスターに満足しておらず、作り直しを求めたことだとも伝えられます。
ここまで聞くと、たしかに“クリスマス休暇の奇跡”っぽい。
でも、この話を奇跡で終わらせてしまうと、いちばん面白いところを取りこぼします。《ジスモンダ》が衝撃的だったのは、偶然に拾われた新人が一発逆転したからではなく、サラが「この人ならいける」と判断できるだけの“前史”が、すでに積み上がっていたからです。
ミュシャは「初めて描いた」わけじゃない——サラを描いた経験があった
まず大前提として、ミュシャはサラを「初対面で描いた」わけではありません。
1890年、ミュシャは舞台衣装の雑誌『Le Costume au Théâtre』の仕事を通じて、すでにサラを《クレオパトラ》役として描いています。つまり彼は、ベルナールの顔立ち、舞台での見え方、衣装の説得力を“観察して描く”経験を持っていた。
さらに1894年には『Le Gaulois』のクリスマス&新年特集で、サラの『ジスモンダ』を扱う企画にも関わっています。サラを描く仕事が、すでに「現場の流れ」として回っていた。
ミュシャが作画を担当した1894年10月30日のルネサンス劇場のジスモンダの企画, Public domain, via Wikimedia Commons.
ここで見えてくるのは、いわば“偶然の形をした必然”です。休暇のせいで担当が空いたのは事実。でも「たまたま居合わせた誰でもよかった」わけではない。印刷所側から見ても、ミュシャはすでに「うちの仕事を理解していて、しかも線が異様に強い」人だった。
実際、ルメルシエの代理人ド・ブリュノフが、休暇で人がいないため“窮して”ミュシャに振った、という形で語られることがあります。
いきなりゼロからじゃない——舞台の空気と挿絵の修羅場が、すでにミュシャの身体に入っていた
そしてもう一段、「とんとん拍子」の理由があります。ミュシャは『ジスモンダ』の舞台を観て、事前にスケッチを作っていたとも伝えられます。だから電話が鳴った瞬間、ゼロから捻り出したのではなく、頭の中にすでに“舞台の空気”が入っていた。偶然が扉を開けたとしても、そこを走り抜ける脚は、すでに鍛えられていたわけです。
ただ、鍛えられていたのは「観察眼」だけではありません。ミュシャはパリで、雑誌や書籍の挿絵を主要な収入源として鍛えられてきました。小さな版面のなかで、物語を一瞬で読ませる構図、衣装の質感、装飾のリズム、線の強弱、締切に追われながら“読ませる絵”を成立させる訓練を、何度も何度も繰り返していた。
アルフォンス・ミュシャ, Public domain, via Wikimedia Commons.
だからこそ《ジスモンダ》は、ただ美しいだけで終わらない。遠目にも立ち上がる輪郭、近寄るほど増える細部、静かな色なのに目が離せない配置。舞台で見たサラの存在感を、挿絵仕事で鍛えた「一瞬で掴む技術」に変換して、街角の壁に叩きつけた——その合成が、あの一枚の正体です。
