「有明の月と西へゆく」戦国夫婦が詠んだ別れの歌―【“SHOGUN 将軍”の時代考証家が読み解く】深すぎる信仰と愛がこめられた“辞世の句”|フレデリック・クレインス

「有明の月と西へゆく」戦国夫婦が詠んだ別れの歌―【“SHOGUN 将軍”の時代考証家が読み解く】深すぎる信仰と愛がこめられた“辞世の句”|フレデリック・クレインス

ハリウッドにて制作が決定している『SHOGUN 将軍』シーズン2。新キャストとして、Snow Man・目黒蓮さん、水川あさみさん、窪田正孝さんらの参加が決定し、大いに盛り上がっています。

シーズン1にひきつづき、本作でも時代考証家としてドラマ制作に携わることとなった、フレデリック・クレインスさんの著書、『戦国武家の死生観』より、一部を再編集してご紹介します。

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武芸だけでなく、文化的教養も求められた戦国の武将たち

武士といえば刀の達人というイメージが現代では一般的です。たしかに、武士たちは武芸に長けていましたが、その一方で文化的活動にも熱心に取り組んでいました。次のような和歌が残されています。

歌連歌乱舞茶の湯を嫌ふ人 そだちのほどを知られこそすれ

この歌は、和歌、連歌、能楽、茶の湯といった芸道に優れていなければ、武士として失格であるという意味です。細川幽斎(藤孝)の作と伝えられていますが、真偽は定かではありません。とはいえ、この歌は当時の武士の精神をよく表現しています。

一見すると、戦国武士の荒々しい気質とは相いれないように思われるかもしれません。しかし、情緒豊かであったからこそ、その感情を表現する文芸に熱中したのではないでしょうか。

茶の湯は基本的に、戦国武士の人間関係と密接にかかわっていました。迎える側と訪問者がいて初めて茶の湯が成立します。戦国武士はよく仲間を訪問し、そのおもてなしとして茶の湯が発展したと考えられます。

また、能楽も武将たちの間で大人気でした。ただ観るだけでなく、自分で舞うことが重視されました。細川幽斎・忠興父子が能を演じた記録は、数え切れないほど残されています。秀吉も能にのめり込み、自分が主人公として描かれる演目を複数作らせました。これらは「太閤能」と呼ばれています。

武将たちが最も愛した和歌の世界

しかし、武将たちにとって最も特別な文芸は和歌でした。和歌は、この世の儚さを表現するのにぴったりの媒体だったのです。武士たちは熱心に和歌を詠みました。仲間との歌合や連歌会もあれば、一人でも創作しました。出陣する前にも、そして死ぬ直前にも歌を詠みました。当時の史料を見ると、必ずといってよいほど和歌が登場します。

彼らの和歌は、現代人が想像しがちな戦闘的なものではありませんでした。秀吉の辞世の句「露と落ち露と消えにし我が身かな なにはの事も夢のまた夢」のように、人生の無常や自然観察に焦点を当てたものが中心でした。

自分の和歌を編集した家集を残している武将も少なくありません。こうした家集に収められた歌を通覧すると、驚くほど率直で繊細な表現に満ちていることがわかります。たとえば、もともと古河公方の足利晴氏と義氏に奏者衆として仕え、後に北条氏の家臣となった一色直朝は「桂林集」という家集を残しています。その代表的な歌の一首は、次の通りです。

さやかなる月には猶もくもるらん 心ある人の秋の夜のそら

この歌は「澄みわたる月夜でさえ、やはり曇ってしまうのだろうか──人の心が晴れない、秋の夜空よ」というような意味です。この歌は、秋の夜に輝く美しい月と、それを見ても晴れない人の心を対比しています。自然の美しさと、悲しみや憂いを抱えている人間の感情の間にあるギャップを表現した和歌で、「うき身にはなかむるかひもなかりけり 心にくもる秋のよの月」という『新古今和歌集』に収められている慈円の作品を思い起こさせます。

この歌からは、戦国時代の武将が単なる武勇だけでなく、繊細な感性と深い洞察力をもっていたことがわかります。ゆううつや不安といった気持ちすらうかがえるでしょう。彼らは常に死と隣り合わせの生活の中で、自然や人生の儚さを鋭く観察し、それを美しい和歌として表現していたのです。一色直朝の歌は、繊細な武将の内面世界が垣間見える貴重な作品といえるでしょう。

配信元: 幻冬舎plus

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