私たちは、意識があるからこそこの世界や自己を感じられる――そう思っている人は多いことでしょう。では、死んだら「私」という自我はどうなるのでしょうか? 睡眠研究の第一人者である筑波大学の櫻井武教授が、意識の役割と“自分”の正体に迫ったサイエンス新書、『意識の正体』。本書より、一部を抜粋してお届けします。
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死の向こうにある「世界」への疑問
――死んだらどうなるのだろう。
この問いは、ときに静かな水面に落ちた一滴の雫のように、意識の底に波紋を広げることがある。
多くの人にとって、死の恐怖は痛みや苦しみだけではない。
その奥には、「自分」という灯りがふっと消えた後の闇――その向こうが見えないことへの恐れがある。
けれど私が時おり抱くのは、それとも少し違う。
〝私が死んだ後も、この世界は在り続けるのだろうか?〞
〝続くとすれば、その世界は私が今見ている世界と同じ顔をしているのだろうか?〞
〝もし人類という種そのものが消えたら、世界は静かに幕を閉じるのではないか?〞
この疑問は、最後にはひとつの場所に行き着く――「意識とは何か」。
そして意識を問うことは、同時に「自己とは何か」を問うことでもある。
なぜなら、意識を問う上で「自己」を考えることは不可欠と思われるからだ。

現実は脳が描いた物語かもしれない
一方で、私たちが〝現実〞と呼んでいるものは、感覚器官が拾った断片を脳が縫い合わせ、色を塗り、物語として仕立て上げた幻影のようなものだ。
私たちは、目の前の世界が、誰もいなくても厳然と存在する客観的な実在だと信じたがる。
「私」がいなくなっても、太陽は昇り、街はざわめき、時は流れ、歴史は紡がれる――ほとんどの人はそう考えるだろう。
だがその確信は、私には少し頼りない。
〝現実〞は、脳という小さな劇場で上演される一幕にすぎないのかもしれない。
頰を撫なでる風も、遠くの笑い声も、花の香りも――外界の変化が電気信号となり、神経回路を伝って脳によって再構成された「私だけの世界」だ。

