『このミス』大賞(『元彼の遺言状』)、山本周五郎賞(『女の国会』)受賞作家・新川帆立の最新作は、恋と魔法の学園ファンタジー『魔法律学校の麗人執事』!
12月24日『魔法律学校の麗人執事3 シーサイド・アドベンチャー』の発売を記念して、試し読みを全12回でお届けいたします。
* * *
「マリス様、お言葉ですが。暴力はお控えください」
ギロリ、と刺すような視線が向けられた。
「先ほどの御者も怯えておりました。言葉で伝えれば分かることですから、あえて暴力を用いずとも――」
「うるさい」吐き捨てるように言った。「お前、また吹き飛ばされたいのか」
その瞬間、身体に衝撃が走った。私は座席の側面にしがみついた。目に見えない何かが当たっていった。魔法で振り落とされると直感した。
とっさに手を伸ばし、マリスの手首をつかんだ。マリスはギョッとした顔でこちらを見た。私は手に力を入れて彼の手首を引き寄せた。
「今まではそうやって、力で制圧して、使用人を怯えさせ、支配してきたんでしょう。しかし私には通じませんよ」
さらに手に力を込める。このまま手首を折ってやろうとも思ったが、さすがにやめた。一応、相手はご主人様だった。
「いいですか、私はこの手を離しませんよ。落ちるときはあなたも一緒です。それでもいいなら、ここから吹き飛ばしてください」
マリスの目が一瞬泳いだ。「はあ?」落ち着きはらった低い声だったが、その頬が、ほんの少し引きつっているのが見てとれた。
もしかして、慌てている?
そう思ったのも束の間、マリスは調子を取り戻すように空咳をして、ツンとした顔に戻った。
「おい、馬鹿力」
いかにもつまらなそうに言った。
「何もしないから、さっさと手を離せ。暴力を控えろと言ったのはお前だろう」
それもそうだと思って手を離した。マリスは手首を振って「野蛮だな」とつぶやいた。
「俺様の手首が折れたら、世界の損失だ」
悠々とはるか彼方の地平線を見つめながら、彼は言った。
「そんなことは天地にかけて神が許さないだろう」
私はぎょっとしてマリスを見た。彼は、さも当然と言わんばかりの笑みを浮かべていた。
(こいつ、どうしてこんなに自信満々なの……?)
普通の人が言えば滑稽に聞こえるような台詞も、清麗な見た目のためか、妙に板についていた。気のきいた皮肉を言ってやりたいが、言葉が見つからず、ただ顔をそむけた。
そのうちに、眼下に城壁が現れた。形をまじまじと見て気を紛らわせた。次第に高度がさがっていく。
楕円形の都市がぐるりと城壁に囲まれている。中世ヨーロッパの城壁都市をモデルにしているようだ。
キャンパスについては事前に調べてあった。
帝桜学園高等部魔法律学科は、周囲を山と森に囲まれた西多摩郡檜原村にある。
キャンパスはとにかく大きい。東西に七キロ、南北に三キロ、二十平方キロメートルほどある。東京都港区と同じくらいだ。敷地の周りを歩くだけでも四、五時間はかかる。
敷地は城壁と堀に囲まれていて、周りを南北に流れる秋川が天然の堀となっていた。四方に門と跳ね橋があり、生徒と職員、一部の研究関係者以外、たとえ保護者であっても敷地内には入れない。公開行事で特別に見学者の受け入れが許されるときは、宝くじの高額当選なみの高倍率の抽選となるのが通例だった。
なんでそんなにセキュリティが厳しいのか、ちょっと不思議だ。だが、魔法律学校は教育機関であると同時に研究機関でもあるらしい。強力な悪魔一匹、魔法律家一人で艦隊一つを吹っ飛ばすこともあるようだから、最先端の魔法律は国家レベルの機密なのだろう。
ドンッという衝撃とともに、跳ね橋の前に馬車が止まった。私はすぐに馬車から降りた。地面に足が着くと、やっと生きた心地がした。とりあえず転落死は免れたのだ。
城壁の東側、正門の前に着いたらしい。
息をつく暇もなくマリスは歩き出している。当然のように無言だ。慌ててあとを追った。
すらりと伸びた身体、大きな背中を見つめながら、心の中で舌打ちをした。
暴君じゃないか。
思った以上に、いや、想像しうる限り最も悪い状況だ。こんなに粗暴で、人を人とも思わないご主人様に仕えるなんて。
(これもすべてはお金のため、修道院のため。仕事なんだから……)
なんとか気持ちをなだめながら歩調を速めた。
2 マリス
俺は大股で悠々と、石畳の道を歩いた。春の風の心地よさがむしろ不快だった。
何もかもが気に入らなかった。
父が勝手に執事と契約したことも、その執事からまったく魔力の気配がしないことも。そのくせ執事が反抗的で、暴力的なのも。すべてに腹が立つ。
道の両脇には赤茶けた瓦のついた三角屋根の建物がぎっしり並んでいた。右手、北側には魔法道具の商店が集まっていて、左手、南側は研究者や教職員たちの居住スペースになっている。
敷地の中央には哲学広場というだだっ広い広場がある。広場には、定番だけど噴水があった。噴水の中央にあるモニュメントは少し変わっている。右手に剣、左手に天秤を持って目隠しをした女の像だ。正義の女神だったと思うが、名前は忘れてしまった。
後ろでボソッと、「テミス像か」とつぶやくのが聞こえた。
椿とかいう新しい執事だ。
振り返ると、俺の視線から逃げるように顔をそらした。
俺は無視を決め込んで、歩き続けた。
あちこちで妖精が歌っている。芽吹きの時期、花咲く季節、春を祝福するように世界中が浮き立っている。威勢のいいラッパの音が鳴ったかと思うと、どこからともなく桜の花吹雪が舞ってきた。
目の前を青紫色の光が走った。妖精王〈オーベロン〉の使者たちが交わす伝令だ。周りをただよう薄緑の煙は、地底の悪魔〈旧鼠(きゅうそ)〉の吐息だ。どこかの暗がりで顔だけ出して、新入生の品定めをしているのだろう。
世界は魔法に満ちている。
しかしあの光も、この煙も、凡人どもには見えないらしい。
皇帝の眼。
と、呼ばれる。
青と碧の縞模様の虹彩。
その「眼」を持って生まれるのは、条ヶ崎家でも何代かに一人だ。
かつての先祖が、悪魔と取引をして手に入れた力だと言われている。
魔力をかぎわけ、悪魔の居場所をいち早く見つけることができる。他の者に先んじて悪魔と契約し、魔法を独占して、権力をため込んできた。
見る必要もないほどの、微細な魔力すら捉えてしまうのは玉に瑕だが。
空中にただよう旧鼠の吐息を視界の端で追う。
風の悪魔〈シルフィード〉が楽しそうに俺の周りを飛んでいた。
シルフィードはヤマネコのような見た目をしている。地域によっては、風貍とか、かまいたちなどと呼ばれる。キジトラ模様のふかふかの毛をなびかせて、気持ちよさそうに飛び回っている。
その姿は、俺にしか見えないようだ。
二年前のことだった。屋敷の裏手に広がる山脈を散策していると、古い巨木の洞の中に光るものが見えた。かさついた苔の上で、ヤマネコらしき獣が丸くなっていた。呼吸の浅さから弱り果てているのが見てとれた。すぐに連れ帰った。それがシルフィードとの出会いだった。
契約を結んで毎日魔力を与えていたら、シルフィードは少しずつ元気になった。周りには隠していた。父に見つかったら、風を吹かすだけの低級悪魔は捨ててこいと言われそうだったから。
だがあるとき、シルフィードに話しかけているところを兄に見られた。
家じゅうが大騒ぎになった。
シルフィードは四大精霊の一つで、とても珍しいA+ランクの悪魔だったらしい。条ヶ崎家では、四大精霊のうち火の精霊〈サラマンダー〉を代々当主が保有していた。それに加えて風の精霊まで手に入れたとなると、条ヶ崎家の権力は万全だと、父は鼻息を荒くした。
兄が家を出たのは、その翌日だ。

