2025年、藤岡美千代さん(66歳)は、ロシア極東の都市・ハバロフスクに降り立った。藤岡さんの父・古本石松さんは、終戦後、3年間のシベリア抑留を経験している。
ドキュメンタリー映画の撮影で現地を訪れた藤岡さんは、生前、家族に暴力を振るった父親もまた、戦争の被害者だったのではないかと、その正体を突き止めようとしていた。(取材・文:遠山怜)
●80年前の父の姿を探して
「軍歴証明書によると、父は、ハバロフスクから北へ約600キロメートル進んだ場所にあるムーリー地区を中心に鉄道建設に動員されていたようです。父がいた収容所跡地を目指して列車に乗ると、あらためてこんなに遠いのかと絶句しました。父はこの線路を敷くために何キロも歩いたのかと思うと、胸がいっぱいになりました」

当時、旧ソ連は各地の収容所で約55〜60万人にもおよぶ日本人の旧軍人や民間人を、労働力として働かせていた。収容所(ラーゲリ)があった正確な場所は公表されておらず、当時の痕跡を留めるものはほとんど残っていない。
しかし、一部の歴史博物館にて、残された資料を復元した当時の収容所が公開されている。藤岡さんは2024年、京都の舞鶴引揚記念館を訪れ、再現された収容所を目にしていた。
「木製の二段式の狭い寝台に、マネキンで再現された捕虜が毛布一枚で身を横たえていました。何百人もの兵士が寝起きしていたにも関わらず、ストーブは一つだけ。たくさんの人が、寒さや飢え、病気で命を落としていったそうです」
「寒さに身を凍えた捕虜のマネキンを見ていたら、ぜんぶお父ちゃんの顔に見えるんです。こんなところでよくぞ耐え抜いて、帰ってきてくれたんだなって」
●それでも生を諦めない人がいた
事実、父親は現地で3回の入退院を経験している。飢えと寒さにより、肺を悪くしていた。軍歴証明書の診療記録に記載されていた病院のうち、二つはすでに廃院となっていた。残るハバロスフク地方ワニノ市に位置するヤクドニア病院は、当時の病棟はすでに閉鎖されていたが、建物の一部は現存していると聞き、現地を訪れた。

「軍歴証明書に残されていた何十枚にもわたる治療記録を、通訳や現地ガイドの方が解読してくれました。そこには、父の様子が詳細に残されていました。
朝の体温から昼、夜の病状まで、入院時の父の様子が丹念に記録されていたんです。何日も何日も、治療内容や父の病状、回復具合が克明に記されていて、医師や看護師たちの『なんとしてでも、この日本人を生きて本国に返してあげよう』という思いが伝わってきました」
「終戦後も日本に帰ることは叶わず、過酷な地に留め置かれた。それでも、生かそうとしてくれた人たちがいる。ロシアの人に感謝の念が湧きました。この地に捕虜として送られて、生きて帰ってきたことが、どれほど奇跡的なことか」

