「優しい人でしたよ」DV父の意外な過去 シベリアで娘が知った「生かされた記録」

「優しい人でしたよ」DV父の意外な過去 シベリアで娘が知った「生かされた記録」

●あり得た未来、奪われた過去

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被害を知ったからといって、父親の暴力をなかったことにはできない。しかし、藤岡さんは「本来ありえたはずの父」を想像する。撮影の過程で、若き日の父親を知る親戚筋を探し出し、会うことができたのだ。

「私のいとこにあたる人で、ずっと若い頃の父を知っていました。『石松さん、優しい人でしたよ』って。お酒が全然飲めない人で、酒豪の先輩たちに飲まされて大変だったって。人に頼まれたら断れなくて、気弱なタイプだったと話してくれました。他にも青年団に入って、家族や村の人のために忙しく働いていたと」

「その話を聞いて、あり得たはずの父の姿を見た気がしました。きっと、私がこんな風に父のことを調べているのは、本当のお父ちゃんに会いたいからなんでしょうね。お酒も飲めなくて、お母ちゃんの尻に引かれているような、優しいお父ちゃん。楽しい時はどんなふうに笑ったのかなって。戦争がなければいたはずの父と、話してみたかった」

●被害の影に、いまだ問われぬ加害責任

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血縁者を探す中で、父親が家族の中でどんな立場だったのか見えてきた。

「父が戦争に行っている間に、下の兄弟が8人増えていたんですよ。命からがら帰ってきた父にしたら、さぞかし拍子抜けしたでしょう。お国のために、家族のためにと身を捧げてきたのに、帰ってくるとはなから期待されていなかった。おまけに国は戦争を忘れ、何もかもなかったことにしようとしている。父がアルコールを飲まずにいられなかったのは、生きて帰ってきた罪悪感や恥辱感を誤魔化すためだったのかと」

父親は戦後の日本で、強い疎外感を抱えていたのかもしれない。家族の中で起きた暴力もまた、戦争が社会に残した長い影の一部なのだと、藤岡さんは考えている。

「父を戦争に送り込んだ人たちは、なんの責任も負わず、加害者の自覚もないまま天寿をまっとうしたのだろうと思います。父が暴力を振るった責任を問う上で、加害に誘い、放置した国の責任も問われなくてはならないでしょう。父が、あの時代を生きた人が、戦争を望んだわけではない。自分ではどうしようもないものに翻弄されて、生きざるを得なかった」

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