かつて「死んでよかった」と思った父へ シベリア抑留から80年、娘が追う「戦争被害」の足跡

かつて「死んでよかった」と思った父へ シベリア抑留から80年、娘が追う「戦争被害」の足跡

2025年5月、藤岡美千代さん(66歳)はロシア極東の都市・ハバロフスクに降り立った。藤岡さんの父・古本石松さんは3年間のシベリア抑留を経験している。藤岡さんは復員兵の家族に密着したドキュメンタリー映画の撮影で、同地をはじめて訪れた。

父の足跡を追う旅に出たのには、理由がある。藤岡さんは、父親からの暴力を受け、その影響下にあった家庭環境で育った。

「父は私が9歳の頃に亡くなりましたが、『最初からいない』ものとして扱ってきました。生前、父が私たちに振るった暴力の数々は、今でも忘れられません。けれど、死んだ以上、もう関係改善は望めないのだから、忘れるようにつとめてきました」

被害の後遺症は深く、長年カウンセリングを受けた今でも、父親の遺影を直視することができない。そんな藤岡さんが、加害者である父親の“被害の足跡”ともいえるロシアを訪れたのは、なぜだろう。本稿は、PTSDの日本兵家族会 関西支部代表・藤岡美千代さんに話を伺い、加害の背景を明らかにする試みを追う。(取材・文:遠山怜)

●終戦後80年目に広がる“戦争証言”の輪

終戦から80年が経ったいま、当事者家族による新たな“証言”の試みが広がっている。

大阪市東淀川区でティールーム「・オリーブガーデン・」の店主を務める藤岡美千代さん(66歳)。現在、藤岡さんは、第二次世界大戦時に徴兵された復員兵の子ども・孫世代の当事者団体で活動し、不定期で当事者会を開催している。

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同会は、父親は生前、戦争によるPTSDを患っていたのではないかと考え、専門家らとともに、実態調査を進めている。

藤岡さんの父・古本石松さんも、戦争を経験したひとり。1942年に従軍し、広島・呉で海軍に所属したのち、シベリアで3年捕虜を経験し、1948年に京都・舞鶴に帰還した。復員後、地元で新しく妻帯し、生まれたのが兄と藤岡さんだった。物心がついた頃から、父の様子は子どもの目にも異様に映った。

「酒が入ると父の表情がカッと、一変するんです。目は獲物を探すようにギラギラして、子どもを見つけるやいなや、手当たり次第に暴力を振るいました。就寝中に壁に放り投げられたり、食事の用意ができたちゃぶ台を突然ひっくり返して暴れたり、『今からみんなで死のう』とプロパンガスの栓を開けることもありました」

「一つ上の兄と私は、父の暴力から逃げ惑うために、落ち着いてご飯を食べ、眠ることすらできませんでした。そのため、9歳の頃に父と母の離婚が成立した時は、心底ホッとしました。父が病死したと聞いたときも、悲しいよりも、『これでもう“大魔神”みたいに暴れるお父ちゃんはいないんだ』と安堵するばかりでした」

●父に背中を向けて生きる

その後、母親に引き取られた藤岡さんは、虐待された過去を忘れようと、「女手ひとつで育った」と思い込むことにした。しかし、20歳の頃、実家に帰省した際に、衝撃的な事実を耳にする。父親の本当の死因は、自死だと知った。

「自死と聞いて、ピンときたんです。実は亡くなる数日前、父は私たちに会いに来ていたんです。その時の父は不思議とお酒の匂いがしませんでした。私の手を取り、『美千代、俺を許してごぜえ(許してくれ)』となんて言うんです。けれど、私たちは『何を今さら』と呆れるばかりで、決して『お父ちゃん』とは呼びませんでした」

その後しばらくは、あの時、何か一言でも声をかけていたらと、罪悪感に苦しんだ。しかし、父親はもう亡くなっている以上、どうすることもできない。せめて自分は父とは違う人生を選びたい。藤岡さんは自身の心の傷と向き合いながら、何十年も過ごしてきた。

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