●見えた糸口
転機が訪れたのは、藤岡さんが64歳になった頃。大阪で復員兵の家族による当事者会があると知り、参加することにした。以前から、父親の言動は精神疾患によるものではなかったか、と確信めいたものを感じていた。
「昔、戦争PTSDを負った兵士を描いた映画を見た時、『あれ、お父ちゃんや』と直感したんです。その時は、父はPTSDだったのかとひとりで納得して、自分の胸にしまっておきました。
だから、『復員兵と戦争後遺症』というキーワードに胸騒ぎがして、当事者会に足を運んでみると、私と同じように、父親との関係に悩まされてきた人が、たくさんいたんです。無気力で話もろくにできない父親もいれば、刃物を持って暴れる父親もいたり、酒浸りになった父親もいたりして、様子はさまざま。でも、共通して『父は戦争を機に豹変した』と」
藤岡さんは長年、「父親がおかしい」と考えていたが、家族らの証言を聞くうちに、戦争がどれほど人の人生を狂わせるのか、目の当たりにした。
「実は、親戚から『あんたのお父ちゃんは、戦争に行く前は優しくていい人だった』と言われたことがあるんです。もちろん、後年の姿しか知らない私は、到底信じられませんでしたが、ほかのメンバーも似たような経験をしているんです。
戦争に行く前は、『学業優秀で将来が期待されていた』『人あたりが良くて誰とでもうまくやれる人』と。配属された部隊はみんなさまざまですが、戦争を契機に人がこれほど変わるのかと実感しました」
加害の責任は加害者自身にある。しかし、父親の暴力性の裏には、見過ごされてきた被害があるのではないか。父を狂気に駆り立てたものの、正体を知りたいと思った。
●苦痛の旅路を追って
藤岡さんはメンバーに勧められ、軍歴証明書を取得した。軍歴証明書とは、旧陸海軍に所属していた兵士の所属部隊、階級、在籍期間などを記録したもので、厚生労働省または各都道府県に申請することで、入手できる。家族にとって軍歴証明書は、本人が語り得なかった個人史を明らかにする、数少ない手がかりでもある。
藤岡さんの父親の場合、30枚にもわたる膨大な記録が残されていた。記録により、広島・呉に出征したのち、北海道の北東に連なる千島列島で軍務にあたり、3年間シベリアに抑留され、1948年に舞鶴に帰還したと判明した。また、シベリア抑留時のものか、治療記録も残されていた。

ロシア語で書かれた診療記録を前に、いったいこれは何なのか、知りたいと思った。捕虜になる前、千島列島での生活は当事の衛生兵の手記からおおよそわかっている。
「基地は人も住めない不毛な土地にありました。噴火山の島であるため、日中は硫黄の煙で視界が悪く、胸を患う兵隊が多かったそうです。1945年8月、父は千島列島で終戦を迎えましたが、捕虜となり、1948年までとどめ置かれたのです」
2025年の5月、ついに時は来た。ドキュメンタリー映画の撮影に同行するかたちで、ロシアの地を訪れる機会を手にする。父親が動員されたロシア極東の都市・ハバロフスクから、収容所のあったムーリー地区を巡る。
「お父ちゃん、おかえり」
シベリア鉄道に乗り、父親がかつて歩いて行き来したであろう長い道のりを車窓に見やりながら、藤岡さんはふと呟いていた。

