夫への信頼を完全に失った真緒は、離婚という選択肢と現実的な不安の狭間で揺れながらも、実家の支えによって進む覚悟を固めた。
子どもたちを守るため、自分の人生を守るため、真緒はついに夫と真正面から向き合う決断をする。
静かな夜、突きつけた結論
その日は、特別な出来事があったわけではなかった。夕方、夫がいつも通りに帰宅し、玄関で靴を脱ぐ音が聞こえた。それだけ。私はキッチンから顔を出し、静かに言った。
「……ご飯の前に、少し話があるから。机に着いて」
その声の低さに、夫は何かを察したのか、何も言わずにダイニングの椅子に腰掛けた。子どもたちはすでに寝室で眠っている。家の中は、張り詰めたような静けさに包まれていた。私は向かいの席に座り、まっすぐに夫を見る。
「結論から言うね。弘樹、精神科に通ってほしいの」
夫婦ではなく、条件としての関係
一瞬、夫は言葉を失った。
「……は?なんで、急に」
「急じゃない。ずっと考えてた」
私の声には、迷いも揺れもなかった。
「万引きを繰り返してたことも、ストレスとの向き合い方も、全部おかしい。専門家の力を借りない限り、私はもう一緒にやっていけない」
夫の表情が、みるみるうちに強張っていく。
「ちょっと待ってくれよ。もう終わった話だろ?不起訴にもなったし——」
「終わってない」
きっぱりと言い切る。
「私の中では、何も終わってない。弘樹への信頼は戻ってない」
数秒の沈黙のあと、私は続けた。
「通院しないなら……離婚も考えてる」
その言葉に、夫は明らかに動揺した。椅子を引く音が大きく響き、落ち着きなく視線を泳がせる。
「おい、待てよ。そんな大げさな……子どももいるのに」
「だからこそ、だよ」
私は静かに、しかし確固たる口調で言った。
「このままじゃ、子どもたちに悪影響。あなたの不安定さも、私の不信感も」
夫は頭を抱えた。
「離婚なんて……親にも言えないし、会社の人にだって……」
その言葉を聞いた瞬間、私は内心で確信した。この人は、まだ“自分”しか見ていない。
「でしょ?」
私は淡々と言った。
「あなたも、離婚は困る。義父母にも、会社にも、説明できない」
夫が顔を上げる。
「だから、最低条件として、病院に通ってほしいの」
冷静すぎるほど冷静な自分の声に、私自身が少し驚いていた。
「治療を受けて、向き合う姿勢を見せて。できないなら、私は子どもたちを連れて家を出るから」
しばらく、夫は何も言えなかった。やがて、力なく頷く。
「……分かった。通う」
その返事に、安堵はなかった。ただ、「選択が一つ定まった」という事実だけが、胸に残った。

