昨今、家族葬が増え、孤独死・無縁死、無縁墓の増加や墓じまいの高額な離断料が問題になり、人々は葬式と墓と遺骨を持て余していることを明らかにする、宗教学者・島田裕巳氏による『無縁仏でいい、という選択 も、墓じまいも、遺骨も要らない』が話題です。長寿が変えた日本人の死生観――その最前線とは? まず、「はじめに」をお届けします。

日本人の生き方が変わったから死生観も変わった
私は、2010年1月に、幻冬舎新書の一冊として『葬式は、要らない』という本を出した。この本はよく売れ、大きな話題にもなった。その後起こる、葬式の簡略化に影響を与えたとも言われる。
著者としては、その影響がどの程度のものなのかを判断するのは難しいが、それを推測するいくつかの材料はある。
本が出た直後、仏教宗派のシンポジウムに呼ばれて、つるし上げにあったことがあった。それ以降、それまでは呼ばれていた各仏教宗派の研修会などに講師として招かれることはいっさいなくなった。
葬儀業者の団体からは、二度にわたって抗議文が送られてきた。提訴する意思も示されていたが、結局、そうしたことにはならなかった。
その後、「自然葬」(遺骨を墓地ではなく海や山などの自然に還す葬法)を推し進めてきたNPO法人「葬送の自由をすすめる会」の第2代会長をつとめていた時代に、私は『0葬──あっさり死ぬ』(現在、集英社文庫)を出版して「0葬」を提唱した。0葬とは、火葬された遺骨をいっさい引き取らないやり方をさす。そうすれば、墓を建てる必要もなくなる。
この本を出したのは2014年のことだったが、『朝日新聞』の書評で取り上げられたこともあって話題になり、よく売れた。書評委員会では、何人かの委員が手をあげたらしいが、結局はイラストルポライターの内澤旬子氏が書いてくれた。その後、0葬という用語は定着し、NHKのテレビ番組でも紹介されるようになった。
本書は、こうしたことを踏まえ、さらにその先を考えることを課題としている。葬式や墓など、私たちの死後の扱われ方は、近年大きく変わってきた。死に方、あるいは死生観が変貌してきたとも言える。
死生観が変わったということは、死を迎えるまでの私たちの生き方が変わったということでもある。私たちは今、自分たちの生と死をどのように考えればよいのか。それを探ることが、本書の目的である。
おそらく、これから示していくことが、日本人の生と死の最前線ということになるだろう。さらにその先があるかと問われれば、「それより先はない」。私自身としては、そのように考えている。
「伝統」を守らねばならぬ理由は「それが伝統だから」
葬式や墓のことは、伝統に根差すもので、これまではそう簡単に変わらないと考えられてきた。
実際、私もそのように考えてきた。したがって、『葬式は、要らない』の「おわりに」の部分では、次のように述べていた。
しばらくのあいだは、人口構成の関係で死者の数が増えていく時代が続く。そのために、急速にその事態が顕在化していくことはないかもしれないが、死者の数が減少するような時代になれば、一気に事態は変わるかもしれない。
ここで言う「その事態」とは、葬式無用の流れのことをさしている。本を執筆していたのは2009年の年末ということになるが、その時点で、私は、これほど葬式をめぐるしきたりが変わってしまうとは、予測していなかったのである。
2023年における死者の数は157万5936人だった。この数は、ここのところ年々増えており、今から15年後の2040年には168万人でピークに達すると推定されている。私は、2009年末の時点で、その時期に至らなければ、葬式無用の流れは加速されないと考えていたわけである。
私の予測は見事に外れた。
伝統は、意外にもろいものなのである。
辞書で「伝統」という言葉の意味を調べてみると、「ある民族・社会・集団の中で、思想・風俗・習慣・様式・技術・しきたりなど、規範的なものとして古くから受け継がれてきた事柄。また、それらを受け伝えること」(『デジタル大辞泉』)と出てくる。
ポイントは、「古くから受け継がれてきた」というところにある。
この辞書では用例として、「歌舞伎の伝統を守る」と「伝統芸能」があげられている。歌舞伎は江戸時代の初期にはじまるものだから、400年以上の伝統がある。
伝統芸能全般ともなれば、雅楽や能楽も含まれるわけで、そちらの歴史は歌舞伎よりもさらに長い。
何かの習慣やしきたりがあったとき、なぜそれを守らなければならないのかと疑問を呈すると、「それが伝統だから」だという答えが返ってきたりする。
尋ねた側は、そんな答えでは納得できないと思いつつも、伝統を持ち出されると、さらなる反論が難しくなってくる。それだけ、伝統という言葉には重みがあるわけである。
しかし、伝統が本当に古くから受け継がれてきたものかどうかは、かなり怪しいところがある。

