●刑確定後、犯行否定
男性3人は控訴せず、服役します。しかし、服役中や出所後、「自分は犯人ではない」と関係者に漏らすようになります。
アヤ子さんの控訴審に証人として出廷した長兄(当時、アヤ子さんの夫)は、「刑事がそばで言わんか、言わんかと責められ言わされたのです」などと、アヤ子さんも自分も無実だと主張します。
次兄は出所後、再審の相談で亀田徳一郎弁護士と面談した際、「警察に私はしていないと言った。でも、しただろうが、早く言え!と言われた。弁護士にも3回、していないと言った」などと話しました。
その次兄の長男は南日本新聞社に来て、「最初から犯人扱いだった。私のことを信じてくれなかった」「警察で言ったことと裁判所で言うことが違うといけない。違ってもいいことを知らなかった」と私に語りました。
1審で3人の弁護を担当したW事務所の弁護士がもっと彼らの思いを聞き出すことに成功していたなら、否認事件として本格的な弁護活動に乗り出せたかもしれません。
さらに言えば、当時は起訴後にしか就けなかった国選弁護人としてではなく、3人の逮捕直後から私選弁護人として面会していたら、違った展開になった可能性もあります。
ただ当時は、アヤ子さん自身も事件は夫ら3人の犯行だと思い込んでいました。事件構図全体を見直すには所属事務所3人から成るW事務所全体で取り組んでも相当な労力と警察や検察と対決する覚悟が必要となったでしょう。
共犯者とされた3人の男性が罪を認めて刑に服したのに、主犯格とされたアヤ子さんだけが無実を訴え続ける困難さ。そんなアヤ子さんの控訴審、上告審を担当したのは別の事務所のT弁護士でした。
本人曰く自民党員で政治的には保守的だったかもしれませんが、弁護士らしい在野精神のある快活な人でした。否認事件にも熱心に取り組みました。
福岡高裁宮崎支部で開かれた控訴審では前述のようにアヤ子さんの夫(当時)を証人として出廷させ、「刑事に強く責められてアヤ子も関係したと言ったが、アヤ子は関係ない」という証言を得ます。
ただ、既に罪が確定し服役中の夫は「私もしていない」と言ったことからT弁護士は慌てます。その主張を信じれば、まさに事件の構図見直しを図らねばならない事態でしたが、その発想にはならなかったようです。
T弁護士は次兄の証人申請も行いますが、高裁宮崎支部は認めませんでした。もし、認められて次兄も「私もやっていない」と公判で証言したら、どうなっていたでしょう。ひょっとしたら事態は動いたでしょうか。
現実はそうならず、地裁判決から半年後、高裁宮崎支部はアヤ子さんの控訴をあっさり棄却します。
●高隈事件で奔走した弁護士たち
T弁護士は高隈事件(鹿屋夫婦殺害事件)も国選で担当します。
知り合いの夫婦2人を殺した罪に問われた船迫清被告人は無罪を主張しましたが、鹿児島地裁は1976年、懲役12年の有罪判決を下します。
計画性のない突発的な事件とされたとは言え、通常なら無期懲役でも仕方ない求刑が懲役15年という異例なものでした。
裁判所も意外だったようで、3人のうちの1人の裁判官は後に「それはもう。2人殺してますからね」と私に語ってくれました。
判決は有罪としたものの、重要な証拠の一部がすり替わった可能性を指摘します。犯行に至る経緯も現場状況などから起訴事実を大幅に変更し、裁判所独自の判断を示しました。いずれも検察、弁護側ともに主張していないものでした。
T弁護士は福岡高裁宮崎支部で始まった控訴審でも私選として弁護しますが、宮崎刑務所の拘置区にいる船迫さんからの度重なる面会依頼への対応が難しくなり、辞任します。弁護料は固辞しました。
代わって宮崎の佐々木正泰弁護士が国選で担当します。土呂久、松尾両鉱害訴訟の原告弁護団長も務めるなど人権派の弁護士でした。当時、79歳と高齢ながら船迫さんと毎週面会し、耳を傾けたようです。
しかし、裁判所は佐々木弁護士の証人申請、証拠開示請求などをことごとく却下したうえで、1980年、控訴棄却の判決を下します。しかも1審判決が疑問を投げかけた問題はほぼ無視し、犯行までの経緯も起訴事実に戻して認定しました。
「宮崎の高裁は最低だ」と佐々木弁護士は身内に語っていたそうです。
誤解を恐れずに言うなら、福岡高裁宮崎支部は当時、鹿児島の人権派・社会派弁護士からは「刑事も行政訴訟もまず勝てない」ともっぱら言われていました。
支部勤務となった裁判官は飛ばされてしまった感があり、任期中、目立たぬよう事なかれ主義に徹して次の異動を待つからだという訳です。

