ウィーンの宮廷からフランスの王妃へ
ジャン・バティスト・アンドレ・ゴーディエ・ダゴディ『オーストリアのマリー・アントワネットの肖像』, Public domain, via Wikimedia Commons.
マリー・アントワネットは、フランツ1世とマリア・テレジアの15番目の子どもとして、ウィーンの宮廷に生まれました。
アントワネットの母であるマリア・テレジアは、1740年にハプスブルク家の全領土を継承し、政権の座に就いた女性です。
夫のフランツ1世を皇帝にしたあとは、自らの産んだたくさんの子どもに政略結婚をさせることによって、ヨーロッパにおけるオーストリアの地位向上をはかっていました。
アントワネットもまた、他の兄弟や姉妹たちと同じように、政略結婚をする運命にありました。のちにフランス王となったルイ16世の妻となるため、わずか14歳で花嫁となったのです。
ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン『麦わら帽子の自画像』, Public domain, via Wikimedia Commons.
1777年、マリア・テレジアは、アントワネットの肖像画を求めた手紙をフランスに送りました。
その依頼を受け、王妃の肖像画を描くという重要な任務に選ばれたのが、ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン(1755–1842)でした。
ルブランはアントワネットの美しさに感激し、「お妃様に会ったことのない人に、優雅さと高貴さが完璧な調和をなしているその美しさを伝えることはむずかしい※」と語るほどでした。
ルブランの描いたアントワネットの肖像画は、マリア・テレジアからも好評だったといいます。彼女はこの後、長年にわたって王妃の肖像画を描き続けることになりました。
※石井美樹子・著『マリー・アントワネットの宮廷画家 ルイーズ・ヴィジェ・ルブランの生涯』より引用
スキャンダルとなったシュミーズ姿の絵(1783年)
ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン『シュミーズ・ドレスのマリー・アントワネット』, Public domain, via Wikimedia Commons.
マリー・アントワネットと言えば、派手好きで浪費家、国家のお金を湯水のように使っていた……という贅沢三昧なイメージがある方も多いのではないでしょうか。
しかし実際のアントワネットは、宮廷の派手で堅苦しい儀礼や衣裳があまり好きではなかったとされています。厳格な儀礼の場から離れる時には、親しい女性たちと一緒にくつろいだ格好をして過ごすことも少なくありませんでした。
そのくつろぎの場で身に着けていたのが、「ゴール(ガリア人という意味)」や「王妃のシュミーズ・ドレス」と呼ばれる衣裳でした。コルセットやパニエといった堅苦しい装具を身に着けない、非常にシンプルな服装です。
ところが、この格好をしたアントワネットを描いた『シュミーズ姿、あるいはゴール風のマリー・アントワネット』という肖像画が、大きな批判を呼ぶことになりました。
その理由として、アントワネットのまとうドレスがフランス製の絹ではなく、輸入された綿のムスリン製であったこと、公式の肖像画としてはあまりにもリラックスした格好であり、下着姿のような印象を与えてしまったことなどが挙げられています。
しかし、この絵がきっかけで、宮廷夫人や上流階級の女性たちが次々とシュミーズ・ドレスを着るようになりました。
マリー・アントワネットは、宮廷や上流階級におけるファッションリーダーでもあったのです。
