"首飾り事件"と良き母親像のアピール
ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン『マリー・アントワネットと子どもたち』, Public domain, via Wikimedia Commons.
1785年、アントワネットに深刻なスキャンダルが降りかかります。
それはのちに"首飾り事件"と呼ばれるもので、宮廷に出入りしていたラ・モット夫人が「王妃のため」と称して160万リーヴル(日本円だと数十億円とも言われている)の首飾りを購入しようとした事件でした。
アントワネットは無実だったものの、この事件は財政難に苦しむ国民たちにとって、大きな反発感情を巻き起こしました。王妃としてのアントワネットの国内での人気も、危険な下降線をたどったのです。
そこでルブランが描いたのは、低迷してしまった王妃の人気を回復させるための、これまでと違った肖像画でした。
1786年に制作された『マリー・アントワネットと子どもたち』という肖像画には、ふたりの息子とひとりの娘に囲まれた、母としてのアントワネットの姿が描かれています。
絵の奥には空のゆりかごが描かれていますが、これは絵を制作する数週間前に亡くなったもうひとりの子どもを暗示したものです。
ルブランは、古代ローマの政治家グラックス兄弟の母・コルネリアをアントワネットに重ねました。
コルネリアには「あなたの一番美しい宝石はどれですか」と人から尋ねられた際に、「それはふたりの息子です」と答えたという逸話があったからです。
良き母としてのアントワネットをアピールしたこの作品は、ルブランの傑作として知られています。
フランス革命により、王妃から囚人へ
作者不明『バスティーユ襲撃とМ・ド・ローネの逮捕』, Public domain, via Wikimedia Commons.
当時のフランスは、アンシャン=レジーム(旧体制)と言われる封建的な身分社会でした。身分階級は第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)に分かれていましたが、聖職者や貴族には非課税などの特権があり、第三身分の人々は無権利で不自由な状態におかれていました。
平民たちは、自分たちの納めた税金が聖職者や貴族階級のために使われることに対し、大きな不満を抱えていました。
そのような状態の中で、フランス王室は常に赤字状態となっていました。そこへ小麦の不作などが重なり、物価高などの影響で、民衆の怒りが高まっていったのです。
ところが、フランス王室は赤字を減らすため、民衆から税金をさらに取り立てました。
国民の負担は大きくなる一方でした。
そして1789年、ついに民衆たちはバスティーユ牢獄を襲撃しました。バスティーユ牢獄には大量の弾薬が備えられており、人々は武力を確保しようとしたからです。
これらの混乱の際、国王一家は、アントワネットの実家であるオーストリアへの亡命を試みました。しかしその計画は失敗し、アントワネットたちは幽閉されることになりました。
ジョゼフ・デュプレシ『ルイ16世の肖像画』, Public domain, via Wikimedia Commons.
幽閉された4ヶ月後には、ルイ16世がコンコルド広場で処刑されました。
夫が処刑されたことにより、アントワネットの最期の日々は非常に屈辱的なものになったといいます。
アントワネットは幼い息子(ルイ17世)と無理矢理引き離され、独房に入れられてしまいました。
その独房では、入場料を払えば誰でも彼女に面会できました。そのためアントワネットは、まるで見世物のような扱いを受けました。
心身ともに大きな苦痛を受けたアントワネットは、37歳という若さながら老女のような外見になってしまったと語られています。
ルイ16世の裁判は厳粛に行われたものの、アントワネットの裁判は、事実無根の罪も作り上げられるほど一方的なものでした。
しかし、アントワネットはそのような場面でも、最後まで気高い態度を保ち続けたのでした。
