
にぼしいわし・伽説(ときどき)いわしによる、日々の「しょぼくれ」をしたためながら、気持ちの「おかたづけ」をするエッセイ「しょぼくれおかたづけ」。
考えに考えて、悩んで、迷って、やっと選んでも、また立ち止まって。
「完璧主義」な私はいつだって正解を選びたいと思い、そのたびに押しつぶされる。
もう少し軽やかな人間になれたらと、どれだけ思ったことだろう。それでも。
そんな自分を「変えられない」と悟った先に見つけたものは、誰かに手を差し伸べられるかも?という気づき。いわしが、ほんの少しだけ自分を好きになれた日のお話です。
■第19夜「考えすぎやねん」
私は「完璧主義」だ。失敗したくないという気持ちが勝つ。失敗したくないという気持ちはどんどん膨れ上がって、いつもこの状態をどう切り抜けられるのかを考えて考えて考えて考えて考えて、終わってしまう。結局は、終わってしまうのだ。人生は一度きりで、考えてばっかりの人生なんてとてもつまらないということはわかっているのに、行動に起こせないのである。頑張って行動に起こしたって、自分の納得する結果にならなくて、やっぱりもっと考えればよかった、と考えてしまうのである。
一度きりの人生、失敗したい奴なんていないはずで、その気持ちはみんな一緒なのに、私は常に考えすぎてしまうのである。
「もうちょっと気楽に考えたら?」
居酒屋でも喫茶店でも立ち話でも帰り際でも、毎日のように誰かにこう言われている。声に出して言ってくれる人がこんなにもいるのだから、心の中で思っている人は、もっとたくさんいるはずだ。
「私はそこまで考えてないわ」
この言葉が一番怖い。言った本人は、「そこまで考えているのすごいなあ」という感想なのかもしれない。でも、考えすぎの私はこの言葉も「気楽に考えたら?」だと捉えてしまう。これを言われたとき、世間と私は乖離する。考えすぎている私はこの世間には向いていなくて、どうにかなじめるように頑張っているだけの生物のように思える。
みんなにそれがバレないように、同じような服装をして髪型をして言葉を使う。でも根本の考え方が世間とずれていることは、私の肌から、息から、涙から滲み出てしまう。その私の体から滲み出た液は、私には気が付かない特殊な匂いがするらしい。
それに気がついた「普通」の人は、私をつまみ出したいときにその言葉を使うのだ。
昔、付き合っている人から「これ見てみて」とURLがラインで届いた。それを開くと、「あなたの周りにもいる! 完璧主義者の人5選」と書いてあった。書き手は完璧主義者じゃない人が書いているようだ。「いつでも自分勝手」「細かい」「融通が利かなくて自分の意見を通す」「白か黒かしかない」「周りの人は疲れる」みたいな内容が書かれていた気がする。
ショックだったし、口で言ってくれ、とか、いろいろ思うこともあったけれど、心は怒りのほうには向かなかった。どれもこれも見覚えのある自分だったのである。私はいつだって自分勝手だし、細かいし、融通も利かない。そうやって周りの人を疲れさせてしまっていることもわかっていた。私なりに気をつけていたつもりが、まったくもって成果が出ていないことを知り、目の前がブラックアウトした。こういうことを言われてしまった自分を、とてもじゃないけどかわいそうとは思えなかった。被害者ぶるのは絶対に違うと思った。
そして、これを送ることでしか私に言えないほど限界だったのかもしれないと思うと、申し訳なくなって、いてもたってもいられなくなった。私だって、いくら付き合っているからといっても腹が立つことがある、傷つけたくなることだってある。でもその思いの本心は「わかってほしい」だったり「もっと楽しく過ごしたい」だったりする。
本当はそう伝えたかったのに、私がそうさせてしまったのだ。一緒にご飯を食べたときも、楽しく遊びにいったときも、私に対してずっとこう思っていて、言いたかったけど言えなかった。ひとりの人間をそこまでにしてしまう、こんな私はこの世界にいちゃダメだ。私は普通に生きているだけで人を傷つけて、迷惑をかけてしまうようだ。自分は人より「考えすぎ」なだけかと思ったけれど、「完璧主義」という性格でそれはきちんと治さないといけない。でも治せない私はどうなんだ、この世界に生きていていいのか?そう思った。そしてそのあと、これも白か黒でしかないことに気がついて、全身の血管がぎゅっと縮こまった。私の体なのに、私の体自身も生命維持するための血をめぐらそうとしなかった。
そうなったときに、この人生を終えることは逃げだと思った。いつもこうやって私は何からも逃げてきたからこうなのだ。逃げたあと、「考える」ことに逃げて自分を保っていた。いつまでとぼけたことを言ってるんだ、とも思った。全部自分が悪いんだから、治せるところは治そう。毎日毎日、私は今日は大丈夫だったのだろうか、普通の人間になれているのだろうかと反省会をした。

■文章を通し逃げずに「ありのまま」と向き合ったことで
昨年の暮れに「しょぼくれおかたづけ」を出版した。出版する前も不安だったし、出版した今も不安だ。考えすぎな私は常にいろんなことを考えすぎていた。
結果、私は何も治ってなかった。考えすぎは積もりに積もって本になるほどだった。
考えすぎているときはしんどいし、逃げ出したい。でも逃げたしたら前の自分と一緒だ。どんどんエッセイを書き進めながら、自分の無視したい感情にていねいに向き合うことで、私のどこが考えすぎで、どこが完璧で、どこが「いいところ」なのかがわかってきた。
私は自分の感情をベルトコンベヤで流して、瞬きを忘れて目を凝らせる。自分のダメなところばかり見ていると、喉の奥から苦い汁が出てきて気持ちが悪い。ダメなところばっかりが流れてくる目の前に、キラリと光る大事にしなきゃいけない私の粒が、確かにあった。
出版後、ちらほらとDMなどで感想をいただくことがあった。
「自分にも見覚えのある気持ちで読むのがしんどくて、涙を流しながら読みました」
「いわしさんの悩みが私と一緒で、そんな中でも懸命に頑張っているのを知って、私も頑張ろうと思えました」
私の完璧主義による考えすぎは、私にしか当てはまらないと思っていた。
でも、違う場所で生まれた年齢も違う人たちの心のどこかにも当てはまっているようだった。
そこでまた私は考える。ベルトコンベヤのスイッチを押す。
私が好きな漫才ネタの数々、思い出のライブ、腹を抱えて笑った企画、たくさん流れてくる。どれもこれも光っている。
そうか、これも確かに、私の完璧主義で考えすぎな部分から生まれているのだ。
今、私は自分のを考えすぎる性格を変えようとは思わない。考えすぎたことで、自分をただ責めるだけの人間にはなってはいけないことがわかったから。そしてなぜか、私の完璧主義は他人を救うきっかけになったようだし。
そう考えると、私はこれからも、考えることが楽しみでしかたない。


