2026年の年始早々、いじめや暴行の様子を撮影した動画が、相次いでネットに公開、拡散された。
こうした映像が世に出るたび、メディアが報じ、それを見た人たちから学校や教育委員会、行政に抗議や問い合わせが殺到する──。この光景はもはや珍しいものではなくなった。
ネット社会において、こうした流れはある意味で必然なのかもしれない。だが、一方で「告発して対応を迫る」という方法が、本当に最適解なのかは、立ち止まって考える必要がある。
なぜなら動画が拡散されることで、無関係な第三者からの苦情や問い合わせに追われ、教育現場や行政の業務が著しく圧迫されるためだ。本来注力すべき当事者対応や再発防止策の検討に十分な時間を割けなくなるという弊害も生じる。
いま起きている現象は何を意味し、どこに課題があるのか。告発せざるを得ない状況に追い込まれた「いじめ被害者」たちの事情に思いを馳せつつ、あらためて整理してみたい。(ライター・渋井哲也)
●告発が繰り返される理由「救済されないという認識」
当事者や第三者による告発や暴露は、決して新しいものではない。
これまでも繰り返され、そのたびに現場は対応に迫られてきた。告発が起きる背景には、少なくとも「学校側の対応が機能していない」「相談しても期待できない」という認識がある。
つまり、告発は「前触れのない暴走」というより、結果として対応を迫ることになるが、当事者にとっては最後の手段である場合が少なくない。
そのため、いくら告発が「名誉毀損だ」「肖像権侵害だ」と主張しても、当事者や拡散者の耳には届きにくい。SNSが発達した現在では、批判すればするほど話題は長引き、炎上が収益化につながる構造すらある。
●炎上は止められない前提で
「収益化は不謹慎だ」と批判しても、その批判自体が再生数を押し上げる──。そうした逆説的な現実も一部ある。
では、SNS発信と報道は何が違うのか。取材プロセスや責任の所在は異なるものの「結果として収益になる」という点では同じだ、と指摘されることもある。
そう考えると、動画公開による炎上は、もはや避けられない前提として捉えるべき段階に来ているのかもしれない。
問題は、告発や暴露が起きること自体ではなく、それを前提とした「いじめや校内暴力に対応する仕組み」が、いまの社会に合っているのかどうかだ。
告発を「異常事態」とするのではなく、炎上が起きることを前提にしつつ、炎上に依存しない制度設計にするべきだ。

